沈降
耳抜きをしながら、そのまま沈降を続ける。タンク脇から延びているダイブコンピュータを握り、潜航時間、残圧、深度を確認した。水面ではもみくちゃにされていた体も、深度が10メートルにもなると嘘のように静まる。下を見ると黒々とした空間が広がっている。岸に近いにもかかわらず真下の深さは200メートルを超える。この島は海溝から地殻変動で隆起した島だった。スキューバーダイビングではその底までは潜れない。だが目的の沈船はもっと浅い場所にあった。彼はゆっくりとフィンでキックしコンパスを見ながら、島の南島の崖下へ向かってゆっくりと進んでいった。しばらく行くと急に下から海底がせり上がってきた。浅瀬に入ったのだ。深さはおよそ20メートルくらいだろうか、下に小魚が遊泳しているのが見える。日の光も半減はしているが十分に水底にまで届く深さだ。 目的のものは意外と早く見つかった。ちょうど浅瀬と海溝の縁の部分だった。船体の約三分の一が海溝側にせり出している。船体が思った以上にきれいに保存されているのに少々驚いた。しかも目立った損傷がない。なぜ沈没したのだろう。もし戦史記録どおり雷撃によるものであれば、この駆逐艦クラスなら船体が二つ折りになっていても不思議ではない。横倒しの形で半分砂にうもれているものの、艦橋や砲塔部分は脱落することなくそのままだった。彼はゆっくりと上方から船体へと近づいていった。船体が砂地に半分埋もれているのだが、そのちょうど東側が土管のような形に大きく盛り上がっているのに気がついた。変わった海底地形だなと不思議に思いながら写真を何枚か撮った。サメ撃ちの水中銃は船内に入るにはじゃまなのでどうしようかとためらったが、捨て置くわけにもいかず肩にかけたままブリッジから船内へと入っていった。 ここは海溝部分から冷たい水が吹き上がっているため、意外と海草類やフジツボのたぐいが付着していない。とても60年以上もこの海底に鎮座している船とは思えなかった。さすがに船窓はすべて破れていたが、速力指示器や舵輪はそのままだった。舵輪は取り舵一杯に切られている。舵の切れ角を示すアナログ計器がそれを示していた光と影の微妙な陰影でいい絵が何枚か撮れた。周囲には遺骨らしきものは見あたらない。遺骨収集はまだ行われていないポイントのはずだから少々不思議に思ったが、おそらく早い潮流で流されたかしたのだろう。いよいよ船倉へと降りていく。ここからは非常に危険なダイブとなる。迷ったり、なにかに挟まったりすれば、エアー切れをおこして即あの世行きだ。用意してきた50メートルのロープをリールから繰り出し、そばの丈夫そうな支柱にロックする。見た目はやわそうだが、カーボン繊維の強靱なロープだった。これで楽々大人一人をつりあげることができる。持ってきたバールで水密ドアをこじ開ける。ほとんど力を要することなく簡単に開いた。とても今まで長い間閉鎖され続けていた扉とは思えなかった。先人がいるのかとふと頭をよぎった。下へと続く急なラッタルが目にはいる。頭部に装着した強力なLEDライトを点灯した。さすがにここからはライトなしでは進めない。階段の上を滑るように降り下っていく。ライトに照らされ何かがきらりと光った。もう一度その方向を照らし出した。ガラス片かなにかが光ったのだろうか。少しの間そこで立ち止まって周囲を見回したが、それっきりだった。ロープを繰り出しながら再び前進を続けた。完全な中性浮力をとっているため、フィン一蹴りで下でも上でも自由自在だった。ミドルデッキにたどり着く。ここは食堂のようだ。一般水兵がここで食事を取りくつろいだところだ。床にはナイフやフォーク、皿が散乱している。非番の水兵が食事をしていた最中に総員配置がかかったに違いない。不意な襲撃を受けたのだろう。どのような攻撃を受けたのだろうか。突然彼の体が急にぐっと後ろに引かれた。腰から繰り出していたロープに引っ張られたのだ。ロープがなにかに絡んだのか。紐をつかみ何度か引いてみる。拍子抜けするように何の抵抗もなくするりとたぐり寄せられた「変だな」不思議に思いながらも彼はそれ以上深く考えることもなく先に進んだ。隣には廊下を挟んで士官室があった。ドアはやはり簡単にあいた。遺骨が目にとびこんでくることを覚悟したがなにもなかった。そう言えば靴やメガネ、時計といった遺品のたぐいもここまできてもひとつも見あたらない。まるで幽霊船ようだ。となりの艦長室へと移動した。ドアは半開きになっている。中に入る。机や書棚が散乱していた。壁に金庫が見える。命令書や暗号書、航海記録が中に入っているはずだった。ここは沈潜撮影の時に必ずチェックするポイントだった。持ってきた小型のバールを扉と外枠の間にねじ込もうとライトでその部分を照らし出した。クラックのような大きな傷が見えた。新しい傷だ。明らかに最近だれかがこじ開けようとしたのだ。やはり先人がいたのだ。中には何も残されていなかった。仕方なく、金庫を閉めその外側から何枚か写真を撮った。外に出ようとふり返ると、通路にライトに光りに反射するなにかが見えた。近づいてみる。ガラス製のようだった。なんだろうと思い手にとる。うっすらとかぶっていた。埃が舞い上がる。スキューバー用のマスクだった。周囲に目をやった。円筒形の物体が見えた。上の埃を払いのける。エアータンクだった。なぜか刃物で切り裂いたような亀裂がいくつも入っている。先人者がいた。そして金庫を開けた直後なんらかのトラブルに会った。彼はカメラを取り出しシャッターを切った。3回目のフラッシュがたかれた瞬間、彼は猛烈な勢いで後ろに引っ張られた。手にしていたカメラが連写モードで、フラッシュを明滅しながら下に落ちていく。すべてがコマ撮り写真のように断続的な映像で彼の視界をスローモーションのように流れていく。ウインチのような重機で巻き取られていく圧倒的な力を全身に受ける。廊下を後ろ向きにずるずると引きずられる。左手でレギュレターを押さえ、右手でなにかつかまるものはないかと必死でまさぐった。ヘッドランプが闇の中を交錯する。ハッチのところで引っかかっただが引きずられる力は収まらない。頭は混乱の極地に達した。水密扉に体が押しつけられる。彼は渾身の力を振り絞り、扉の隙間から後方をのぞき込んだ。全身の神経という神経が剥き出しされ、心臓の鼓動が100倍に跳ね上り、口から躍り出ようとした。そこに見たものは恐ろしいカミソリのような歯が幾重にも縁取る巨大なあごだった。ライトが当たり、その恐ろしい裂け目がものすごい勢いで左右に振られる。金色の目が光った。は虫類をおもわすような無機的な目だった。エラまで裂けたあごにはカーボン製のロープが食い込んでいる。それは今までみたこともないほどの巨大なサメだった。彼の恐怖の絶頂で凍り付いた。なすすべもなくぐいぐいとひっぱられ、錆び付いた扉の隙間に体が押し込められていく。右腕が蝶番に挟まりダイビングスーツが引き裂かれた。するどい痛み。裂けたスーツからにじみ出す血の臭いを嗅ぎサメはさらに凶暴に踊り狂った。扉の外に引きずり出された瞬間に勝負はつく。彼は満身の力を込めて、ロープを引っ張った。切れてくれ。ダイビンググローブがすり切れ、焼け付くような痛み