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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 9~10

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「ごめん、勝手に出て行ったりして」

 最後に会った時よりも低くなった声が耳に届いた。体を離すと、全身の力が抜けて膝から落ちてしまった。太くなった腕が体を支えてくれる。
 湊人に支えられたまま、オーナーが導いてくれたソファ席に横になった。

「すみません、ご迷惑をおかけして」

 照明を吊り下げた天井が生き物のように蠢いている。視界が定まらないまま声を出すと、すぐそばでオーナーの声が響いた。

「リハーサルが始まるまでまだ時間がありますから、ゆっくりお休みください」

 揺れる天井を眺めていると、湊人が白いおしぼりと水の入ったグラスをテーブルの上に置いた。むかいには晃太郎が座っているようだった。
 湊人は丸まったおしぼりをさっと広げると、初音に渡して言った。

「汗、ふいたら気持ちいいと思うから」
「ありがとう……」

 震えがおさまらない手でおしぼりを受け取る。つづいて初音の体にブランケットをかけた。高村家にいた頃と変わらない彼の気遣いが胸を打つ。
 湊人が店員に名前を呼ばれて返事をすると、晃太郎が小声で言った。

「最近、病院には行ったのか」
「内科で薬はもらったけど、全然効かなくて」
「そうじゃなくて……」

 なぜか晃太郎は言いづらそうにしてグラスの水を飲んだ。湊人の姿が消えるのを待って、テーブルに身を乗り出してささやいた。

「産婦人科に行ったかって聞いてるんだ」
「別にどこも悪いところなんか……」

 言いかけて、晃太郎を見た。乗り出していた体を引っ込めて気まずそうな顔をした。

「どう考えてもつわりだろ」

 言葉の意味を消化できないまま、自分の腹の下をなでた。朦朧としていた意識が冴え冴えとし、鼓動が痛いほど体を強く打ち始めた。

「赤ちゃん……」

 そういえば生理が止まっている。もともと生理不順で予定通りに来たことはないし、夏バテするこの時期は二ヶ月ほどこないこともある。仕事のストレスはたまる一方で睡眠不足も続いていたので、あまり気に留めていなかった。

「ただ体調が悪いってことも……」
「元嫁が吐きまくってるのを横で見てたんだ。間違いないだろ。父親は要か、それとも他の男か」
「そんなの要に決まってる……」

 体を起こして勢いよく言い返そうとしたところに湊人の姿が見えた。籐のかごを片手に持ち、キャンドルを入れかえているらしい。思わず口をつむぐ。晃太郎も素知らぬふりで煙草の箱を取り出したが、初音の腹のあたりを見たあと、テーブルの上に置いた。
 吐き気が遠のいていくにつれ、浮き立った気持ちが急速に下降していくのを感じた。要に連絡したとして、彼は一体どういう行動を取るのだろう。オーディションを受け、事務所との交渉をしている最中に子供ができたと知ったら――
 重い体を起こして、テーブルごしに晃太郎につめよった。

「お願い、要にはまだ……」
「元嫁と同じことを言うんだな」

 晃太郎は深い息を吐いて頭を垂れた。

「あいつは六カ月になってやっと俺に告げた。堕ろせなんて言うつもりは微塵もなかったのに、怖くて言えなかったと言いやがった。全く信用されてなかったってことだ。おまえも同じ道を行くのか」
「そうじゃない……けど……」
「迷ってる間に子供はどんどんでかくなる。さっさと検査を受けて事実をはっきりさせることだな」

 晃太郎がテーブルに手をついて立ち上がると、湊人がかけよってきた。

「初音さん、もう帰るの?」

 額が見えるほど短い髪になった湊人が、以前よりも明るい声でそう言った。
 ゆっくりと床に足をつける。がらんどうのようになっていたふくらはぎに力が戻っている。腰を上げようとすると、晃太郎が腕を持った。

「湊人、ここで働いてるの?」
「本当は高校生はダメなんだけど、接客には出ないっていう条件でオーナーが特別に雇ってくれたんだ。社員寮にも住まわせてくれてる。すっごいボロアパートで要んちよりひどいよ。要は今どうしてるの?」

 モップを持った湊人が余裕のある笑顔を見せた。初音は安堵のため息をついた。

「新しい所属先を探しに東京に行ってるわ。湊人にとっても会いたがってた。メジャーデビューが決まったらいずれ家を引き払うみたいだけど、今は誰もいないから、住みたくなったらいつでも連絡してね」
「うん。ありがとう」

 そう言ってうなずいた笑顔は力強い光を放っていた。生気に満ち溢れた表情が、もう二度と高村家に戻ることはないと語っているようだった。
 ステージに視線を送る。左隅には変わらずグランドピアノが鎮座している。
 湊人はそっとグランドピアノのボディをなでた。

「営業時間外に、時々弾かせてもらってるんだ。まだ父さんには及ばないけど、いつか必ずこのステージに立って見せるから、そのときは来てよね」

 凛と背筋を伸ばす湊人に父の姿を重ねようとして、やめた。彼は父とは違う人生を歩んでいる。これから奏でるピアノの音色もきっと違ったものになるだろう。湊人の姿は自分の思い出の産物ではなく、現実に生きて成長を続ける青年だった。

 オーナーにお礼を言って、晃太郎と店の外に出た。
 夕刻の冷えた風が初音の頬をなでる。枯れ落ちた葉がショートブーツに落ちる。
 お腹に宿っているかもしれない新しい命が、未来への希望となるのか足かせとなるのか、想像することすらできなかった。