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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 9~10

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 芽衣菜は紅茶のティーバックを取り出しながら言った。奏多に牛乳のパックをさし出すと、彼は落ち着きなく瞳を動かした。

「ねえねえ、しゅうくんは? すとろーだしてもらうの」
「修は死んじゃって天国に行っちゃったからいないのよ」
「じゃあままやってー」

 芽衣菜は牛乳パックを受け取ると、慣れた手つきで袋入りのストローを取り出し、奏多に飲ませた。奏多の口ぶりから、三人で食事をしていた光景が目に浮かぶようで、胸が痛んだ。
 芽衣菜がゆっくりとカップに口をつける。彼女の顔からは感情は読み取れなかった。
 晃太郎はウィンナーパイを一口かじって言った。

「わざわざ子供を連れて、何しにきたんだ」
「奏多が要に会いたいって言ったから、連れてきただけよ。あなたは?」
「ついでによっただけだ」

 二人とも本音を言っているように見えない。口のまわりに砂糖をつけた奏多が芽衣菜のデニムパンツを引っぱった。

「まま、どーなつたべたよ。かえろう」
「はい、ごちそうさまでした」

 芽衣菜は立ち上がると、奏多の口の汚れをふきとり、手早く食器を片づけ始めた。初音はティーカップのセットを持ってあとを追う。

「何か用があったんじゃないの?」

 芽衣菜とシンクの前に並んで立つと、スポンジを持った芽衣菜の口角が上がった。

「要ってああ見えて繊細なとこあるから、弱ってるんじゃないかと思って様子を見に来たんだけど、初音とうまくいってるみたいだし、大丈夫そうね」

 言いながら次々と食器を泡立てていく。グロスを塗ったくちびるが動く。

「やったんでしょ、あいつと」

 低い声でささやいた芽衣菜を見ると、にやにやと笑っていた。頭に向かって血が上っていくのを感じるばかりで何も言えずにいると、芽衣菜は「言わずともわかる」とつぶやいて肩を叩いた。ふと学生時代にも似たようなやりとりがあったことを思い出したが、あの頃と違うのは、お互い出会う喜びも別れの痛みも知っていることだった。

「あの人には気をつけなよ」

 芽衣菜はスポンジの影からこっそりと晃太郎を指さした。

「初音のことが好きなんだってからかったのに、眉ひとつ動かさなかったの。本気だよ、あの人。ぼんやりしてたら操を奪われちゃうよ」

 わざとらしくそう言うと、「まったくうらやましいじゃない」と笑った。
 芽衣菜との他愛のないやりとりが、懐かしかった。子供を産んでも、愛する人を失っても、彼女らしい快活さは変わらないと思うと、口元がほころんだ。

「修くんが亡くなってから……芽衣菜はつらい気持ちになったりしないの?」

 ふとそんな疑問が口をついて出た。となりに立っている芽衣菜はいつもと変わりなかったからだ。

「……奏多がいるし、あの子の前では悲しい話はしないようにしてるの。修の命は終わっちゃったからもう会えないんだよって、それだけ。まあ、一人でいるときは、メソメソ泣いたりしてるわよ。なんで結婚したいとか言いながら、勝手に死ぬんだよ、このアホたれがー……とかね。でも私は生きなきゃいけないから」

 最後の言葉が心の奥に低く響いた。初音はうなずいた。芽衣菜の生きる覚悟は、自分よりもずっと重いのだと感じた。
 芽衣菜は食器を水切りかごに入れて、手をぬぐった。

「新曲、楽しみにしてるね」

 さっぱりとそう言ってリビングに戻った。晃太郎の肩に乗った奏多が楽しそうに甲高い声を上げている。芽衣菜が「帰るよー」と言って扉に手をかけても、今度は「かえらなーい」と言って、彼の頭にしがみついた。
 彼らが去ると、晃太郎もショルダーバックを背負ってCDを取り出した。

「新曲にいくつかドラムパターンを重ねて録音してみた。樹さんの音も入ってる。アレンジの参考にしてくれ。それと湊人の居所だが」

 ソファの上に置きっぱなしになっていたメモ用紙を指差して言った。

「『ラウンド・ミッドナイト』に行けば会える。気がむいたら連絡しろ」

 そう言ってレザーのスニーカーに足を入れた。リストバンドははずされたままだ。このところ、ドラムを叩く時以外は手首に何もつけていないことが多い。

「……あなたと一緒にロスには行けない」

 うつむいたまま言うと、晃太郎はすっと立ち上がった。

「未来に確実なことなんて何もない」

 いつもの低く響く声で言うと、引き戸を開けた。
 さしこんだ夕日が足元を照らす。彼の色素の薄い髪が、茜色に染まって見えた。

                 ***

 最後に晃太郎に会ってから一か月が経つ。湊人の姿は未だに確認できていない。
 母にもまだきちんと話せていない。初音が毎日のようにピアノを弾くことから大方のことは察していると思うが、仕事をどうするかということが、未だに決められずにいた。

 仕事が休みの日のたびに『ラウンド・ミッドナイト』のそばまで行くものの、店内に入る勇気は湧いてこない。湊人が出入りするのを見たという従業員用の戸口をしばらく見張っているが、このところ、人ごみの中に入ると目眩が襲ってくる。
 沿道に植えられた街路樹が色づき、空の色が薄くなっても、行きかう人々の熱気は変わらず立ち上っている。すれ違う女性の香水のにおいや、飲食店から漏れ出す食事の香りに立っていられないほどの吐き気を感じる。
 世間では早くもウイルス系の胃腸風邪が流行り出している。何度か内科を受診したが、処方された薬は効果を発揮しなかった。
 走り去っていく車が容赦なく排気ガスを浴びせる。その場に立っていることに限界を感じてしゃがみこむと、見慣れたワークブーツが視界に入ってきた。

 顔を上げると、黒のロングTシャツを着た晃太郎が立っていた。

「どうした。具合が悪いのか」
「ちょっと気持ち悪くなっちゃって……なんでこんなところに……」
「この先になじみのスタジオがあるんだよ。立ち上がれるか」

 晃太郎が腕をひいた途端、視界が真っ暗になった。全身から血の気が引いていく。すぐそばにあるラーメン屋の室外機から豚骨の強烈なにおいが漏れ出している。胃の底から液体がせりあがってきたが、手で口を塞いで飲みこんだ。

 晃太郎に肩を抱かれ、準備中の『ラウンド・ミッドナイト』にかけこむと、レジカウンターで帳簿をつけていたオーナーが目を丸くして迎え入れてくれた。店内の奥にはカウンター席があり、キッチンの隅の方に湊人の姿が見えた。明るい茶色だった髪はもとの黒髪に戻り、白いシャツと黒いサロンを身にまとっている。

 一瞬目があったが、声をかけることもままならず、トイレへかけこんだ。
 外出先で嘔吐するのはこれで何度目だろう、と考えながら便器を見つめた。 勤務中も目眩を伴った吐き気が一心同体のようについてまわっていた。

 化粧室から出ると、カウンター席の前に湊人が立っていた。三か月会わない間に背が伸び、頬の肉がしまって見えた。黒髪の湊人は、記憶に残る父と瓜二つだった。

「初音さん、大丈夫?」

 不安げな湊人に声をかけられ、思わず抱きついてしまった。元気な姿を見たら声をかけずに去ろうと思っていたのに、彼の体温を確かめずにいられなかった。心臓はしっかりと脈打っている。彼の薄い肩を握る手が震えていた。