ファースト・ノート 9~10
無人になった家には見る間に埃が積もり、外観もどこか寂れていくようだった。
徹治の病状は瞬く間に悪化した。放射線治療と抗がん剤投与の効果も見られず、自力歩行が難しくなってきている。がん細胞が脊髄に移転している可能性もあるらしい。動くと全身に痛みが走るのか、寝返りもままならない。意識がはっきりせず、会話の最中にこと切れたように眠ることが多くなった。
徹治がこの家に帰還することはもうないかもしれない。姿を消したままの湊人が戻ってくることを願って、家じゅうに掃除機をかける。
二階にある四畳半の和室に入り、クロップトパンツのポケットからメモ用紙を取り出す。要が教えてくれた楽器店やCDショップの店名が並んでいる。
気にかかっているのは『ラウンド・ミッドナイト』だったが、母に認められていない今、オーナーに合わせる顔もなかった。
調律師泣かせのおんぼろアップライトピアノを弾いていると、階下から物音がした。
玄関の三和土に立っていたのは晃太郎だった。
「要なら来週まで戻らないと思うけど」
「知ってる。近くまで来たからよっただけだ」
曲がりくねった私道の奥にある高村家に、何かのついでに寄ることは難しい。断わる間もなく、我が家のようにずかずかと上がりこんできた。
ボトルのアイスコーヒーをグラスに注いで出した。晃太郎はたっぷりと氷の入ったグラスを傾け、喉を鳴らしながら飲む。一気に飲みほしてしまうと、ガラステーブルにおかれたメモ用紙を見ながら言った。
「湊人には会えたのか」
「まだ……そういえば、修くんがバンドマスターをやってたバンドって、今でも継続してるの? そこに顔を出してる可能性も……」
「修が亡くなって以来、空中分解してる。湊人も姿を見せてない」
そういえば通夜の翌朝に会ったきり、芽衣菜の姿も見ていないと思った。すらりと背が高く、いつも凛としていた芽衣菜――泣き言のひとつも言ったことのない彼女が、二重まぶたが腫れるほど泣きじゃくっていた姿が記憶に焼きついている。
修介の愛した居場所がまたひとつ消えるかと思うと胸が痛む。
晃太郎はショルダーバックから譜面の束を取り出して言った。
「湊人の居所、知りたいか?」
「……知ってるの?」
水に濡れたグラスをテーブルにおくと、何食わぬ顔で距離を縮めてきた。
「スタジオの帰りに、偶然見かけた。知りたいなら交換条件だ」
「条件って」
言い終わらないうちに、ソファの上に押し倒された。抵抗する間もなく腕を取られ、くちびるを塞がれる。声を上げようとすると、舌が入りこんできた。生き物のようにうごめいて思考をストップさせてしまう。脳内の酸素が欠如し、水面から顔を出すように必死になって彼の舌から逃れる。
「人の家で、何考えて」
「今日は邪魔が入らない」
低い声で囁いたかと思うと、耳たぶを噛んだ。思わず体がのけぞってしまう。
太い指がキャミソールの下から侵入してくる。膝が太股のあいだに割りこんでくる。
くちびるが首筋を這って鎖骨へと移動していく。
彼の頭がさらに下に移動しようとしたとき、密着していた胸板がわずかに浮いた。
その瞬間、初音は両足を胸の前に折りたたむようにすべりこませて股間を蹴り上げた。
晃太郎の呼吸が止まり、その隙にソファから這いずり出した。
皮膚のあちこちにくちびるの感触が残っている。乱れた呼吸を整えられない。
晃太郎は四つん這いの姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げた。
「この状況で男の股間を蹴り上げるやつがいるか……」
「あなたこそ……何考えてるのよ」
床に手をつき、息をつぎながら動悸がおさまるのを待つ。
晃太郎はゆっくり上体を起こすと、ソファから下りながら言った。
「おまえ、要と寝ただろ」
「なんで……そんなこと……」
平静を取り戻しかけていた心臓がまた激しく脈打ち始める。晃太郎がにじりよってきても、足に力が入らず、あとずさることしかできない。
「見てりゃわかる。だったら」
晃太郎はカットソーを脱ぎ捨てて、初音の腕を取った。
「あいつがいないうちに、かっさらっていくしかないだろ」
跳ね除けることもできず、瞬く間に覆いかぶさってきた。床板に肩が激しく打ちつけられる。手首に痣が残りそうなほど強い力がかかったとき、玄関から声が聞こえた。
聞き覚えのある女性の声が何度か響いたあと、開けっ放しのリビングの扉からピンクのキャップを被った芽衣菜が姿を見せた。
「あらーおじゃましちゃった?」
芽衣菜は初音の顔を見ながら、平然とそう言った。体の上には晃太郎がのしかかったままだ。彼女のうしろから子供の声が聞こえると、ようやく晃太郎の体が離れた。
「初音、久しぶりー。ていうか、要は?」
あわてて乱れた上衣を整えると、芽衣菜の素足のうしろから男の子が顔をのぞかせた。
「まま、たかむらかなめは?」
「うーん、いないのかな?」
彼女は上半身裸の晃太郎を見下ろす。晃太郎は、「タイミング悪すぎるんだよ」とつぶやきながらカットソーに腕を通した。芽衣菜はすぐさま「真っ最中じゃなくてよかったじゃない」と返す。晃太郎が苦々しい顔つきをする。
おさまらない鼓動を感じながら、初音は言った。
「メジャーデビューの話が流れたから、今は自分で所属先を探すために東京に行ってるの。来週末には戻ると思うんだけど、聞いてない?」
芽衣菜は細く整えた眉を下げて、首をふった。
「ま、あそこの社長は金に汚いって噂だからねー。縁切りされてよかったんじゃない。そうそう、これみんなで食べようよ」
横に長いドーナツの箱を掲げると、男の子は「どーなつー」と言って飛び跳ねた。
「芽衣菜……その子は」
男の子は頭の上に両手で丸を作って体を揺らしている。
何のためらいもなくこの状況を受け入れ、さっさとキッチンに入っていった芽衣菜のうしろ姿を眺めていると、くるりとふりかえって言った。
「奏多っていうの。三歳になったとこ。要の子供じゃないからご心配なく」
心を見透かしたような笑顔でさらりと言うと、小皿を運んできた
彼女に子供がいるとは思わなかった。付き合っている男性が切れ目なくいると気づいていても、相手がどんな人物なのか、知らされたことはなかった。修介の通夜に連れてきていなかったことを考えると、修介もまた父親ではないのだろう。
芽衣菜を中心に、家主不在のまま奇妙なお茶会が始まった。
奏多は黄色い砂糖粒のついたチョコレートドーナツを口いっぱいにほおばっている。隣に座った芽衣菜は母らしく慣れた手つきで奏多の口をふいている。甘いものはいらないと言った晃太郎は、そっぽを向いたまま煙草を吸っている。
「おじちゃんもたべてね」
奏多はウィンナーパイを小皿に乗せて差し出した。さすがの晃太郎も面喰っている。
ひらがなに直すと「要」と一文字違いの「奏多」が、涼しい顔立ちをした母親にはあまり似ない丸い目で晃太郎を見上げる。
「おまえにバッグバンドの話はきてないのか」
「この子を置いて、東京なんかいけないもの」
作品名:ファースト・ノート 9~10 作家名:わたなべめぐみ