ファースト・ノート 9~10
晃太郎は手を押さえられたまま苦笑し、灰皿に煙草を押しつけた。
「この年で、そんな馬鹿げたことなんてしないさ。ただ、十代の連中には危ういかもな。聴きすぎて自殺しましたじゃかなわない。俺たちの手で光をあてる必要がある。陰鬱なマイナーコードが連続したあと、最後にシンプルなメジャーコードが響くあの感じだ。おまえならわかるだろう?」
晃太郎の手を離し、ゆっくりとうなずいた。
これまで目指してきたアレンジも同じ方向をむいていた。要の心の闇に引きずりこまれないように、彼がマイナーコードのまま終わろうとするところへ、セブンスやナインスを加える。もしくはひとつ手前にサスペンドを加えてメジャーコードへ展開する。小手先の細工だと言われたとしても、全体の持ち味や歌詞を損なわずに、多くの人に聴いてもらうためには必要な作業だった。
いつも思い描くのは、『ラウンド・ミッドナイト』の最後のコーラスだ。ふと父が笑顔でふりむくような、ささやかな希望の光だ。
「決断しやすいようにしてやろうか?」
真横に晃太郎の顔があった。息遣いが感じられるほどの近さに迫ってくる。
「決断ってなんの……」
「あいつについていくか、俺についていくかだ」
晃太郎は耳元で囁いたかと思うと、初音の手首をとって床に押し倒した。もがいても身動きひとつできない。
皮膚の熱が感じられる距離まで顔が迫った時、リビングの扉が開いた。
要が立っていた。感情の読めない表情で見下ろしている。
震える手を握りしめて声を出そうとすると、要が晃太郎の肩をつかんでうしろに引き倒した。大きな音を立てて二人同時にひっくり返り、要はあっという間に下敷きにされてしまった。
要の上に馬乗りになった晃太郎は胸倉をつかみあげて言った。
「そんなに必要なら、さっさと東京に連れて行ったらどうだ。おまえがかっこつけて優柔不断にしてるから、俺達まで巻き添えを食うんだ」
吐き捨てるように言って床に押しつける。要は晃太郎の手首をつかんで言った。
「勝手なこと言うなよ。仕事はそんなすぐやめられないって言うし、湊人のこともずっと心配してる。母親が賛成してないことだって知ってる。それでもレコーディングに付き合ってくれた。連れて行こうとしたけど、ここに残ってやることがあるからって拒まれたんだ。無理強いできるわけがないだろ」
晃太郎の胸がゆっくり膨らんだかと思うと、胸倉をつかんだこぶしを揺らしながら声を上げた。
「そういうおまえの甘さがメジャーデビューへの道を閉ざしてるんだろうが。必要だっていうなら、引きずってでも連れて行けよ。いずれ俺はそうするつもりだからな」
初めて聞く晃太郎の怒号だった。瞬く間に初音の心拍数が上がっていく。
身体に力が入らず床にへたりこんでいると、要と目があった。
要の瞳が微細に揺れている。いつの間にか起きていた道夫が晃太郎の肩を引いた。
「晃たんは飲みすぎで熱くなってるんだよね。今夜は出直そうか」
「飲みすぎたのは樹さんの方でしょう」
冷静を取り戻した晃太郎が立ち上がると、要も胸のあたりを押さえて起き上がった。
「要くん、明日の予定は?」
「プロモーションの打ち合わせで事務所に呼ばれてるんですけど……」
「そのあとスタジオを取っておくから、新曲、聞かせてよね」
道夫は目を細めて笑うと、晃太郎の背中を押してリビングを出た。
取り残された要は、しばらく呆然と床に座ったままだった。
日に焼けたカーテンが風に揺れる。稲穂の波立つ音に混じって、鈴虫の音色が聞こえる。静まりかえった部屋の中に、初秋のざわめきが容赦なく迫ってくる。
ガラステーブルに手をついて立ち上がると、目眩を覚えた。こめかみに頭痛が走る。
「明日は遅くまでミーティングがあるからスタジオには行けないけど、深町と樹さんには電話で謝っておくから。先のこと……ちゃんと考えるから」
体にうまく力が入らない。意識はあるのに、生気の抜けた繰り人形のような心地がした。よろめくと、下から見上げていた要が腕を引いた。
「ごめん。あんな風に言われても、やっぱり俺、東京に連れて行きたい。俺のそばでピアノを弾いてほしい。これからどうしたいか、聞かせてくれよ」
要が初音の体を抱きすくめた。力強い鼓動が体内に侵入してくる。しだいに脈動はシンクロし、同じタイミングで血液を送り出す。遠のいていた意識が戻ってくる。
要もピアノもただ好きでいられればよかったのに、いつの間にか無数の鎖が体に巻きついていた。はずそうとすると罪悪感が湧き、ますますこの地に自分を縛りつけた。
今のままで十分幸せなのだと言い聞かせるのはたやすいことだった。朝決まった時間に起き、仕事をし、三度の食事をとれば惰性で日々を送ることができる。
しかし彼らは心地のいい周回軌道からたやすく飛び出してしまう。安定など求めていないのだ。彼らについていくには、自分も軌道から外れる必要があった。
それができなかった。何ひとつ捨てられなかった。痛みを伴う離脱をしなくても、過去のしがらみをひきずったまま生きてくることができた。
要と共に生きるなら、この腕を賭けなければならない。徹治の言葉がよみがえる。
――待っているのは成功か挫折か、生か死か……。
明日はこないかもしれないと教えてくれた修介の死が、知らぬ間に日常の中に埋没していた。明日死ぬのは自分かもしれないし、要かもしれない。保障された未来などどこにもない。ふとふりかえった時、切り拓いた道がうしろに続いているだけだ。
初音は要の胴体にしがみついて言った。
「要と一緒に行きたいけど、私には……」
声を絞り出して言った。無意識の奥底に置き去りしてきた感情の箱が一気に開放され、涙と一緒に溢れ出す。要のシャツが湿っていく。
温かい手で髪をなでながら要が言った。
「明日の夜、俺からはっちゃんのおふくろさんにちゃんと話すから」
体中が温かい熱で満たされていた。優しい声だった。身を任せれば楽になると思ったが、初音は首をふった。
「私が話すよ。聞かないといけないこともあるし……」
嗚咽をこらえながら言った。要がのぞきこむようにして「何を?」と言ったが、もう一度首をふって答えなかった。
二人で何度もくちびるを重ねた。要はくすぐったそうに笑って、「明日、なんて謝ろうかなあ」と言った。「誰に?」と思いつく名前を順にあげると、「うーん、全員」と言って頭をかいた。
体が折り重なる。夜風に浮き上がったカーテンのむこうに、紺藍の空が見える。月はなく、無数の星が瞬いている。要の体温を確かめる。心臓が脈打っている。いつ止まるかもしれないこの鼓動から、ずっと離れずにいたかった。
***
要がいない二週間の間、鈍った運指を取り戻すために、時間のある限り鍵盤にむかった。仕事からの帰りが遅いときは要から借りたローランドのキーボードを使い、日中は母が在宅しているときも紅色のアップライトピアノを弾くようにした。
痙攣がひどいときは、高村家のピアノを借りる。家の鍵は要から借り受けている。
作品名:ファースト・ノート 9~10 作家名:わたなべめぐみ