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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 9~10

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 その後、道夫がピアノの話題に触れることはなかった。夕食の支度をしようとした母をひきとめて、ピザを取ろうと言いだした。道夫と晃太郎のポケットマネーが払われた頃に要がやってきて、彼の財布から酒代が支払われた。
 何故だか、母と道夫はウマが合うようで、普段の姿からは想像できないほど、母は朗らかに笑っていた。



 上機嫌のまま酩酊状態に入った道夫を晃太郎が背負い、そろって高村家にむかった。
 日は落ちてあたりは薄闇に包まれていた。藍鼠色の空にこうもりが数羽飛んでいる。
 道夫は晃太郎の背中で何事かつぶやいている。要も足取りが怪しい。となりを歩く初音の足に、何度も引っかかってくる。
 水のように酒を飲んでいた晃太郎だけが、いつもと変わらない様子で文句を言いながら道夫を背負っていた。稲穂を撫でる風が上気した頬を冷やす。真夏の熱気が去り、枯草の香りが入り混じる風が吹く。

 この季節が来るたび、素手で握りつぶされたように胸が苦しくなる。
 父が亡くなったという知らせを受けた時も、体を傷つけられて逃げるように走ったあの夜も、同じにおいの風が吹いていた。

 リビングのソファに道夫を寝かせてから、要を自室に運びこんだ。ベッドシーツは彼に抱かれたあの日のままだった。閉め切った窓を空け、新鮮な空気と入れかえる。

 要をベッドに座らせると、足のつまさきに何か冷たいものが当たった。
 スプリングベッドの下にクッキーの空き缶が入っている。埃を払い落としてふたを開けると、中から無数のメモ用紙が出てきた。父の徹治が書いたものらしい。

 内容はどれも、どこに行っていつ帰るか、ということだった。住所や連絡先を書いたものはなく、要を思いやる言葉ひとつなかった。一枚ずつ読み返していくだけで、要の心に巣食う孤独の質量がわかる気がした。

 要の腕がのびてきて体をひきよせた。熱いくちびるが重なる。ふたが落ちて甲高い音が鳴り響いた。絡みついてくる腕を引きはがそうとしても、全身にまわったアルコールのせいか思うように腕に力がはいらない。

「これ、おじさんの置手紙……?」
「捨てたつもりだけど残ってた……また今度捨てておくから」

 信じられないほど強い力でベッドの上に引き上げられた。要の下半身がのしかかる。Tシャツの中に手を入れようとしたので、初音はあわてて押さえた。

「だめだって。下に深町も樹さんもいるのに」
「シャワーの音が聞こえてるだろ。晃太郎が使ってるんじゃないの」
「そんな音、聞こえない。気づかれたら」
「俺は気づいてくれた方がいいんだけど」

 服をたくし上げようとして要の腕が上がったので、初音はそのすきまからすり抜けてベッドを下りた。

 うつぶせになった要のまぶたが下りてくる。よほど疲れていたのか、その格好のまま寝息を立て始めた。タオルケットをかけてから、くせ毛に指を入れた。東京に発った日より髪が短くなっている。頬にひげを剃ったあとが残っている。ダークブルーのTシャツもステッチの入ったジーンズも初めて見るものだった。

 頬にキスをすると寝返りをうって仰向けになった。何かつぶやいたかと思うと、太い二の腕が肩にまわって引きよせられた。耳と耳を寄せあうと、また力が抜けた。

 階下に降りると、髪の濡れた晃太郎が洗面脱衣所から出てきた。上半身は裸のままで何もまとっていない。
 カーテンポールにかけたままになっている要のTシャツを取り、無言で表裏を確認する。両袖に腕を通してから首を入れる。肩の厚みの分だけ袖が短く見えた。

「まだ母親には話してないんだろ」

 晃太郎はシンクの蛇口をひねり、ガラスコップに水をそそいだ。

「樹さんの話からだいたいのことはわかってると思うけど」

 幼い頃から、家事を手伝ったり食事を取ったりするときのささいな会話から、八割くらいのことは把握しているようだった。
 最近は母の反応を見れば反対か賛成か推測できる。
 背中をむけているときは、賛成はしていない、ということだ。

 晃太郎は水を飲みほすと、初音に近づいて言った。

「樹さんの発言、あれはおまえに対する警告だ」

 ソファの前で突っ立ったままいると、彼が腕をひいて座らせた。右耳のピアスが滴に濡れて光っている。握ったこぶしの中に汗がたまっていく。
 ななめ向かいの三人がけのソファには道夫が伸びている。

「要の新しい所属先が決まれば、バックバンドも活動拠点を移すことになる。仮住まいもホテル暮らしも俺たちには慣れっこだが、おまえには心の準備すらできていない。フルアルバムの制作が間近に迫っているのに、仕事は辞めないし、家を出て行く気配もない。参加するのかしないのか、さっさと行動に移せということだ」
「そんなすぐにメジャーデビューが決まるって思ってるの?」

 床に座った晃太郎が煙草に火をつけながら言った。

「当然だ。でなきゃ俺や樹さんがこんなにテコ入れしたりしない。さっさと契約を結んでフルアルバムに取りかかってもらわないと困るんだよ」

 徹治が使っていたガラスの器に灰を落とす。現実を見据えた厳しい視線が突き刺さる。

「要のどんなところに、可能性を見出しているの?」
「最初は声だった。既出のヴォーカリストにはない唯一無二の歌声だ。ギターテクニックはまあそこそこだが、伸びしろはあると思った。この二点は誰もが口をそろえて言うことだ。俺がバックバンドに参加しようと思ったときは……もうすでに中毒患者みたいになってたな。あいつの楽曲にもっと深く触れたいっていう衝動が抑えられなくて、来る日も来る日も聴き続けた。ガキの頃の嫌な思い出や未練がましい思慕が次々に湧きだして、胸のざわつきがおさまらなくなった。古傷をかきむしるみたいに聴く作業を繰り返した末に、曲の原動力を知るには自らバックバンドを志願するしかないと思ったのさ。おまえはそういう風に感じたことはないのか?」

 煙草を半分ほど吸った状態で灰皿に置いた。室内に白煙が充満している。

「そうね……すがりたいときに親がいないあの孤独な感じは共感できるけど、死にたいと思ったことはないから」

 初音は庭につながる掃き出し窓を開け放って続けた。

「私が死んだら、譜面もないあの曲が消滅しちゃうもの。湊人に出会って受け継いでる肉親がいることを知って、どこかホッとしたけど……こんな楽しい世界を知っちゃったら、もう死ねないよね」

 そう言ってドラムを叩く真似をすると、晃太郎が苦笑いをした。

「要の曲って、そんなに……嫌なことを思い出すの?」

 つい視線が晃太郎の手首にいってしまう。リストバンドはしていない。命を絶とうとしたその傷跡は、晃太郎の生きてきた証に見えた。
 晃太郎は煙草のフィルターから口を離して言った。

「見たくもない古い写真を見せつけられて、記憶のふたをこじ開けられる気分だ。ここを切った時の痛みや、血の流れる感触や、部屋のにおいまでが蘇ってくる。調子の悪い時ほど聞きたくなって、ともすれば傷跡を切り開きたくなる」

 幾筋も皮膚の膨れ上がった手首を見つめ、火のついた煙草を近づけようとした。
 初音は咄嗟に彼の左手を握った。灰が床にこぼれ落ちる。