ファースト・ノート 9~10
9.チェンジング
窓の外は快晴だった。暦が秋になり、いくぶん和らいだ日差しが差しこんでくる。公団住宅に生い茂る常緑樹にしがみついて鳴き続けたクマゼミたちも、ようやく勢いを失ったようだ。夏休みの間、子供たちの声でにぎわっていた公園も、平日の静けさを取り戻している。
初音は畳敷きの居間に寝転がって、ベランダの網戸ごしに空を見上げる。薄水色の空にすじ状の雲が流れていく。吹きこむ風には昨夜の雨のにおいが残っている。
一雨ごとに朝晩の気温は下がる。青々と茂っていたオシロイバナの葉は色褪せ、湿った地面に落ちたクマゼミに代わってアキアカネが悠々と風を切っていく。
要が東京に向かって一週間が経つが、まだ湊人の所在はつかめていない。
下校時刻を狙って彼の通う高校で待ち伏せをすれば見つけられるかもしれないが、彼が異母姉の存在を隠したがっているとすれば、迷惑な行為に思われた。
要から受け取ったメモがハンドバッグに入ったままになっている。
晃太郎が書き残した美しい筆記体が、海馬にはりついて離れない――あの夜、晃太郎と演奏した『ラウンド・ミッドナイト』が鼓膜の奥で鳴っている。
仰向けになったまま、十本の指で畳を叩く。目を閉じると、規則正しく並ぶ白と黒の鍵盤がせまってくる。一晩限りのグレート・ジャズ・トリオ。ロン・カーターになった白髪交じりのオーナーが初音の動向を探る。父と同じように、真紅のステージにふさわしいかどうか試すようにベースの弦を弾く。
起き上ると視線の先に、父が残した年代物のアップライトピアノがある。
紅色のふたを開けると、鍵盤に乗せたカバーから親しみのある香りが湧きたつ。立ったまま鍵盤に指をのせ、力をこめた。ずいぶんと音程がずれている。
二年に一度は調律する必要があるのに、仕事の忙しさを理由に、五年もの間、調律を依頼していない。母はピアノの扱いに関しては何も言わない。
両親が離婚してから、初音はクラシックピアノを習い始めた。幼少からクラシックに親しんでいた母は、基礎からもう一度、というつもりらしかった。けれど父から学んだ自由な演奏に慣れていた初音にとって、譜面から曲の本質を読み取ろうとするクラシックは困難なものだった。
母の目を盗んでは父の曲を反芻した。芽衣菜と出会ってからセッションする喜びを覚えた。それから引きずられるように要のバンドに参加することになったが、彼が作る楽曲は無限の可能性を秘めていて、編曲によって音楽が生まれ変わる快感も知った。
結果的に要の活動に深くかかわることになり、東京に行った今もフルアルバム用の新曲を待ち続けている。
メジャーデビューを果たしてもなお編曲にかかわれば、今の生活は続けられない。仕事とミニアルバムのレコーディングは両立できるものではなかった。どれだけ睡眠時間を削っても、音楽に本業をおく彼らの足を引っ張ってしまう。要の目指す音楽にこたえてライブに出始めれば、この家も離れることになるだろう。
椅子に腰を下ろし、要の曲を弾き始める。ミニアルバムの発売に先がけてネット配信されることになった『臨界点』――今まさにその場所に自分は立ち尽くしている。
階段を上ってくる複数の足音の中に、母のパンプスの音を聞いた。あわててピアノのふたを閉める。激しい動機がおさまらないうちに、玄関の鍵が回転した。
「どうぞ、狭いところですけど」
そう言った母のうしろから姿を見せたのは晃太郎と道夫だった。
にこやかな笑顔の母に招かれて、手ぶらの二人が玄関マットを踏む。
「なに、何でうちに来たの?」
そろってやってくるなんて、一体何事かと目をむいていると、晃太郎がのれんを持ち上げた。
「要と連絡が取れない。っていうか、おまえも携帯の電源くらい入れておけよ」
そう言われてテーブルの上にある携帯電話を見ると、いつのまにか充電が切れていた。
「ごめん。でもなんでお母さんと一緒に……」
「うちの棟まで来たけど部屋番号がわからなくて、下で困ってらっしゃったのよ。どうぞ上がってくださいな」
母はそう言って来客用のスリッパを並べた。
背の高い男二人がのれんをくぐる姿は、かなり圧迫感があった。
「おまえのところに連絡は来てないのか」
「夕方にはこっちに着くってメールは来てたけど……」
晃太郎から目を離せないまま、携帯電話の充電プラグをさしこんだ。要からの新着メールが届いている。五時には到着すると書かれている。
母に勧められて椅子に腰かけた道夫が言った。
「新曲ができたっていうからウキウキして出てきたのに、要くんから返信がなくって困ってたんだ。押しかけちゃってごめんね、ちょうど初りんにも用があったからさ」
「あいつは何時に戻ってくるんだ」
全くテンションの異なる二人から同時に言われ、交互に携帯電話の画面を見せた。道夫は歓声を上げて手を叩き、晃太郎はテーブルに肘をのせてため息をついた。
「あのルーズな性格を無理にでも矯正したい」
「まあまあ、どこかの事務所にでも行って遅くなったのかもしれないしさ」
「あの……私に用ってなんですか?」
麦茶をさしだしながら言うと、丸い黒眼鏡の道夫が銀歯を見せて笑った。
「そりゃあ新曲のことさ。今度も参加してくれるのかな?」
背後に母の気配を感じた。茶菓子を出そうと、背中合わせに立っている。
「仕事もありますし、まだ具体的なことは……」
「そっかー要くんはその気みたいだけどねえ。この前、野外ライブで弾いた曲はもうやらないの?」
言葉を失ったまま突っ立っていると、母が肩を叩いた。次々と菓子袋を出して、並べるように催促してくる。頭の奥で耳鳴りがして声が聞き取れなかったが、体に染みついた動作で大皿の上に菓子を盛っていった。
「要くんが作ったんじゃないよねえ。作風が全然違うもんね。あの曲もぜひフルアルバムに入れたいなあ。ねえ、晃たん?」
晃太郎は目線を反らしたまま、適当な相槌を打った。
「新曲が出そろったら、また考えます」
二人にどら焼きの入った袋を勧めながら言った。何か言葉を発し続けないと、指先の震えが抑えられそうになかった。
母は穏やかな笑顔で隣に腰をかけた。むかいに座った道夫に、要が今どんな活動をしていて、何のために東京に行っているのか聞いていた。
要と母は面識がないはずなのに、ヴォーカル兼ギタリストとして活動していることを、よく知っているような口ぶりだ。晃太郎は話題をふられたときだけ、言葉少なに返答する。母に「まあ、そうなの初音?」と聞かれるたび、「そうらしいね」としか答えられなかった。
編曲とレコーディングにかかわってきたことはまだ話していない。母の前でピアノを弾いたのも高校二年のピアノ発表会以来だ。その後、大学でジャズ研究会に所属して細々とライブ活動をしていたことも曖昧にしか触れていない。手元にある譜面や音源から大方の推測はしていたと思うが、咎められたことはなかった。
作品名:ファースト・ノート 9~10 作家名:わたなべめぐみ