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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 8

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 ベーシストの樹道夫が言う大いなる野望とは、初音の父が残した遺作をフルアルバムに収録し、日本のみならず世界中に配信することだった。

 そのためには初音の存在が必要だった。生き物のように成長し続けるあの曲を収録するには、ある一定の形を持たせなければならない。タイトルも譜面も必要になってくる。

 収録すること自体、彼女が賛同するかどうかもわからない。どのタイミングでこの提案を持ちかけるべきか、いまだに決めかねていた。



 日がどっぷりと暮れた頃、病室に戻るとスーツ姿の初音がベッドにふせていた。

 新しい業務のメンバーに選ばれた彼女は、朝から研修に行ったと聞いている。
 通常業務に加えて顔合わせや会議の回数が激増し、朝は病院に、夜はスタジオにこもる日々を続けたせいで、疲れがたまっているのだろう。

 髪をなでても、身動き一つしない。

 近くのスーパーで買ってきた弁当を食べていると、初音が目を覚ました。
 体を起こした途端、腹の虫が鳴り響いた。
 要が半分ほど手をつけた弁当をさしだすと、気まずそうに笑いながら受け取った。「ごめんね、朝に食べたきりなの」と言いながら、次々と口に運んでいく。

 必死に食べる姿を見ながら、思わず吹き出してしまった。彼女に食べ物を与えるなんて、いつもと立場が逆だなと思うと、笑いはとまらなくなった。

 寝ていた父が咳きこみ始めた。体を横向きにし、背中をさする。鶏がらのような手が宙を彷徨う。何がほしいのか聞いてみても反応は薄い。

「要……要が泣いてる……」

 そばにあった初音の手を取って言った。顔を見ても、瞳の焦点が合っていない。
 初音が手を握り返して、「要がどうかしたの?」と問いかけても、同じことを繰り返す。

 掛け布団から細いすねが姿を見せ、ベッドから降りようとしたので、必死に押し戻した。

「さっきオムツは替えたんだが……どうして泣いてるのか……おなかがすいてるんじゃないのか……ミルクを作ろうか……」

 父はぼんやりとした目のまま、初音の手を握って言った。
 返すべき言葉が見つからず呆然と立っていると、初音は父の手を握り返して言った。

「大丈夫よ。要はもう泣いてないから」

 優しく力強い声だった。赤ん坊をあやす母の姿がそこに見えるようだった。

 父は徐々に脱力し、両方の瞼が下りてきた。肩を支えてベッドに横たえると、すぐに寝息を立て始めた。

「おじさん、要のお世話してたんだね」
「うん……想像つかないなあ……」

 放心したまま答えると、初音は「愛されてたんだね」と言って笑った。

 父には初音が何者に見えていたのか。妻であった高村早苗か、それとも大野――

 要は頭をふった。よけいな思考を追い出さなければ、今後の楽曲作りにも支障をきたす気がした。

 父は口を開けたまま寝ていた。世界中を旅していた頃は、だらしなく寝ていても体中から覇気が溢れ出していた。だからこそ父の生き方を否定できなかった。家族がほしいと願う一方で、いずれ自分自身も父のように放浪して生きていくのだろうと確信していた。

 病室の窓を開ける。都会のど真ん中なのに、吹きこんだ風が清涼なものに感じられた。

 肺につまった濁った空気を吐きだした。父は安らかな寝顔をしていた。

                  ***

 眠れない夜が続いた。自室のベッドはおろか、寝床にしているリビングのソファすら、眠りを拒絶していた。鳩時計だけが飽きもせず時を刻み続けていた。

 夜の闇とともに神経はさえわたり、ギターを抱えずにいられなかった。これまではどんなに頭がさえて曲を作り続けても、夜明けには泥のような眠りにひきずられていったのに、真夏の朝日がリビングにさしこんでも眠りは訪れなかった。

 自室には過去の遺産がうずたかく積まれている。小学生の頃に切り裂いたカーテンの残骸や、叩き壊した学習デスクの引き出しがいまだに残っている。デスクの上には古い機材や音源、譜面、使えなくなったシールドの類が地層のように折り重なっていた。眠れず使いものにならない体を引きずりながら、不必要なものを選別しようと思った。

 ゴミ袋片手に次々と不用品を放り込んでいく。

 残ったのはクッキーの贈答用の空き缶だった。中には父の置手紙が入っていた。未練がましいと思いながらずっと捨てられずにいたものだ。中には時任の連絡先が書かれたものがあった。なんとなく携帯電話のメモリに登録したものの、かける気にはなれなかった。

 掃除機をかけたあと、クッキーの缶をベッドの下に入れた。

 片づけを終えてベッドに腰かけると、窓からさしこむ西日が顔を照らした。じきに日が落ちて室内は闇に染まるだろう。足早に帰宅する人々の声が聞こえる。どこからか夕食のにおいが流れてくる。一日が過ぎ去って家族の営みが始まるこの時間に、こうやって座っているのが大嫌いだったことを思い出す。

 父の不在期間が長くなるにつれ、この部屋を覆う闇に耐えられなくなり、いつの間にかリビングのソファでなければ眠れなくなってしまった。

 隣の四畳半の和室をのぞく。湊人が来て以来、二階に立ち込めていた暗雲はしだいに晴れ、彼が弾くピアノの音色が重苦しい空気を柔和なものに変えていった。

 湊人の不在がこんなにも精神にこたえるとは思わなかった。
 初音と同じ血統を持つ彼の存在は、家族の片鱗を感じさせてくれていた。



 光を感じて目を覚ますと、初音の姿があった。蛍光灯の白々しい光が脳天につきささる。掃除を終えてベッドに横になったあと、そのまま寝てしまったらしい。額に汗がたまっている。頬にシーツの跡がついているようだった。

「この部屋、ひとりで片づけたの?」

ベッドに膝をのせた初音が窓を空けた。ペールグリーンのカットソーが夜風に揺れる。
 頭をかき、靄のかかった思考のまま曖昧な返事をする。室内にこもっていた西日の熱気が外へ流れ出す。体にまとわりついていた汗がひいていく。

 初音の隣に座り、伸びをしてから言った。

「マスタリングが終わったみたいなんだ。明日受け取ってから、東京に行くから」
「それで……片づけてたの?」
「いつ湊人が戻るかわからないから、しばらくこのままにしておくけど、いずれはこの家も引き払うつもりだから」
「そっか……さみしくなるね」

 初音は力なく笑って言った。窓の外から鈴虫の鳴き声が聞こえる。裾のほつれたレースカーテンが彼女の姿を覆う。心の隅の方が熱を持ち始める。

「あのさ」

 同時に出た問いかけが、吹きこむ風の音にかき消される。
 要が窓を閉めて微笑みかけると、初音は長い髪を耳にかけて言った。

「このあいだ言ってた、まだその先にある夢って、何なの?」

 部屋を埋め尽くしていた不用品がなくなったせいか、声が壁にあたって反響する。

「夢……か」

 ベッドに手をつき、天井を見上げる。
 初音もつられて顎を上げる。天井の木目は傷つき、痣のように染みが広がっている。

 蛍光灯のひもを引いて照明を消した。暗闇の中、初音の視線を感じる。
 要が天井を指差すと、初音の口から小さなため息が漏れた。

「星が……」