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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 8

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 初音の笑い声が聞こえた。スティックを脇に抱えた晃太郎の表情も緩んでいた。修介をあの世に連れ去った死神をどれほど恨んだかわからないけれど、この素晴らしいバックバンドメンバーは天からの贈り物なのだと、素直に思いたかった。

 要の持ち曲をいくつか演奏したあと、ミニアルバムの四曲目に収録する予定の『夜のとばり』にとりかかることになった。先日、原案の譜面を初音に手渡したところで、要も編曲されたものはまだ聞いていなかった。

 初音が手書きの譜面を配る。晃太郎は壁によりかかり、道夫はアンプに腰を下ろす。

 譜面を見ながらイントロのコード進行を確認した。要の胸は期待にふくらんだ。この曲が完成すれば明日の夜にはレコーディングに入れる。黒縁眼鏡のエンジニアにミックスダウンとマスタリングを依頼すれば、ミニアルバムの原盤を持って東京に行ける。

 樹道夫がバックバンドに加入したことで、彼の言う大いなる野望はより現実味を帯びたものとなって要に近づいてきた。

                  ***

 日曜、傘をさして父が入院する病院にむかった。大型の台風が本州に接近しているらしく、朝早くから強い雨が降っていた。歩行者を取り囲むように立ち並ぶビル群は灰色の水の中に沈んでいる。街の中心から少し離れたところにあるオフィス街は、道行く人の姿も少なく、無駄に広い歩道が眼前に広がっていた。

 病院の通用門を通って薄暗いロビーに入る。平日は外来の患者で混みあっている広い待合もがらんとして、三分の二の照明が消されている。診療時間の終わり間近になると長蛇の列ができる受付にも、シャッターが下ろされている。

 待合の椅子にぽつんと座る初老の男性がいた。こげ茶色のハンチング帽をかぶり、銀縁の分厚い眼鏡をかけている。丸めた背中がゆっくりと持ち上がり、くもった眼鏡の中の瞳が要をとらえた。

「要くんかい……何年ぶりだろうね」
「時任さん……」

 目を丸くしていると、時任三郎が立ち上がった。白いポロシャツにベージュのチノパンツ、つま先がくずれた茶色の革靴姿は二十年前と変わらなかった。
彼の家に出入りしていた頃と変わらぬ出で立ちで、目じりに皺をよせて微笑んでいる。

「しばらくぶりに高村から電話が来たと思ったら、病院にこいというものでね。驚いたよ。あの鋼鉄のような男がね……寄る年波には勝てないとはこのことだね」

 腰のあたりを痛そうにさすったので、椅子に座らせた。服装は同じでも、顎の下あたりと腹回りにずいぶんと脂肪が増えている。

「高村は自分の死期を悟っているようだった。昔話ばかりで、あいつらしくもない……。要くんは……お母さんのことは聞いているかね?」
「いえ、なにも。戸籍謄本をとりよせたので、生みの母が亡くなっていることは知っています。幼少期の俺を育ててくれた母さんのことも、少しは記憶に残ってますし」
「そうだ……君は柳美穂くんのことをお母さんと呼んでいたね」

 ハンチング帽を脱ぐと、手の中で半分に折って要を見つめた。瞳の奥に、若い頃の父と柳美穂という女性の姿が映っているようだった。

「柳くんは研究室の助手をしていたんだ。早苗さんが亡くなったあと、高村は一人で君を育てていたんだが、ままならないことが多くてね。大学院を出たあと研究室に残った彼女が、君の世話をしてくれたんだ。いずれ結婚するものだと思っていた。けれど、彼女は婿をとって実家の跡を継がなくてはならなくなって、君が五歳のときに研究室を出たんだよ」

 白髪まじりの髪がたよりなく額に落ち、深い息を吐き出した。

「高村が柳くんの話をすることはないだろうから、今日は会えてよかったよ」

 顔中の皺をよせて微笑み、緩慢な動作で立ち上がった。思うように腰が伸びないらしい。

「時任さんは、俺を生んだ母さんのこと……知ってるんですか?」
「もちろんだとも。君を見ていると、元気だったころの早苗さんを思い出すよ」
「あの……先日父の写真を見たんですけど、髪の短い眼鏡をかけた女性のことは知りませんか。幼い頃の俺を抱っこしている写真があったんです」
「髪の短い眼鏡の……」

 分厚いレンズの中の瞳が彷徨う。彼はしばらく顎をなでてから、口を開いた。

「もしかすると大野くんのことかな。高村と同期のピアニストだ。早苗さんと仲がよかったらしいから、君を抱いている写真があっても不思議ではないね」
「大野……ですか」

 ふと初音の顔が浮かんだ。彼女の姓も大野だったはずだ。

「確か彼女は望月と結婚したはずだから、今は望月姓を名乗っているだろうね」
「……ジャズピアニストの望月浩彰ですか」

 湊人が手にしていた写真が眼前にありありとよみがえる。大野と呼ばれる女性は、初音の母に違いないだろうと思うと、胃の奥がきりきりと痛み始めた。

「おや、知っているのかい。そういえば君も音楽をやっているんだったね。大勢の観衆の前で演奏するとはなかなか度胸がある。論文の発表のとき、質問者と一切目を合わせようとしなかった高村とは大違いだ。ピアノを選んだ理由が、客の顔がほとんど見えないからって言うんだから、おかしなやつだったね」

 そう言って時任が笑ったので、要も合わせて笑った。

 しかし脳裏からは、例の女性の顔が消えなかった。メールアドレスから初音の生年月日を知ったとき「同学年だから同い年だ」と反射的に思ったが、四月生まれの初音と三月生まれの要には、一年近い歳の差がある。

 自分は生みの母を知らない。初音の母が、要を生んだ可能性だって十分ありうる――

 そこまで考えて、こめかみに鋭い痛みが走った。もうこれ以上踏みこんで考えるな――そう体が信号を送ってきた気がした。

「また今度……話を聞かせてもらえますか」

 時任は静かにうなずくと、通用口にむかって歩き出した。ハンチング帽を被って一礼をした彼の姿は、記憶よりもずっと小さかった。

 空いた扉から湿った空気が流れこむ。母がいなくなったあの日と同じように、時任のうしろ姿が雨霧の中に消えていった。



 病室にいるあいだ、父は目を覚まさなかった。放射線治療を受ける度、顔から生気が失われていく。抗がん剤の影響なのか、たびたび幻覚を見るようになったようだ。

 先日、父はひとりで用を足したあと、女性用の病室に迷い込んだらしい。
 居合わせた看護師と父の話をすり合わせたところ、驚いた中年女性たちの奇声が、父には歓迎の声に聞こえたらしい。病室が騒然としている中、満足げな父は論文が認められて拍手喝采を受けていると思っているらしかった。

 幻覚と聞くと、不安や恐怖にさいなまれるものかと思っていたが、父が見るのは幸せだったころの記憶が多いようだった。放射線と抗がん剤の副作用で襲ってくる強烈な吐き気や倦怠感。同時におこる幸福な幻覚は、父の救いになっているのだろうか。

 昼過ぎに病院を出てスタジオにむかった。ミニアルバムのマスタリングを待つ今、次の目標はフルアルバム用の楽曲を作成することだった。すでに原案はいくつかできている。