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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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ファースト・ノート 8

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8.スリープレス・ナイト



 お盆休みが過ぎて五日がたっても太陽の光線は勢いを失わない。水分を失った街路樹は疲れ切った様子でしおれた葉をもたげ、靴の裏が焦げつくのではと思うほどアスファルトからは熱気が立ち上っている。日に焼けた親子連れがにぎやかに通り過ぎていく。

 初音の白い腕が淡いブルーのタンクトップから伸びている。汗をかいたうなじが、ちらちらと要の視界に入ってくる。

 去年の今頃は、海に行こうと修介が騒いでいた。スタジオにこもりきりで日に焼けていない男同士で海など行って何が楽しいのかと却下したが、どこまでも食い下がってきた。

 修介の通夜からまだ一週間しかたっていないが、もっと長い月日が遠くに流れさった気がしていた。

 ビルの一階にある受付を通り、押さえてあるスタジオに入る。いつもなら一番乗りでドラムの前に座っている晃太郎の姿がなかった。

 初音を中に引きいれてギターとシールドを取り出す。八畳ほどの空間には所狭しと機材がつめこまれている。ギター、ベース、キーボード用のアンプ、塞がれた窓のそばに置かれたドラムセット。天井の四隅からはスピーカーがぶら下がっている。

 二本あるマイクスタンドに、受付で借りたマイクをそれぞれセットした。初音には申し訳ないが、座ってキーボードを弾くスペースさえない。
 デビュー前から使っているこのスタジオの窮屈さが要には心地よかった。隣に立つプレイヤーの吐息まで感じられるこの空間で、新たな曲が生み出せると思うと心が浮き立つ。

 初音が音量を調節しながら何やら弾いている。要のオリジナル曲だと気づき、チューニングをしながら口ずさんだ。初音もめずらしく歌っているらしい。
 和声を作ってみようとメロディの五度上をなぞってみたが、うまくかみあわない。

 コードの変更でもあったのかと思っていろいろ試していると、初音が口をつぐんでしまった。

「なんでやめちゃうの?」
「私にあわせない方がいいと思う」
「せっかくきれいな声してるのに……」

 そう言いながら、ずれた原因を見つけようと、頭の中で初音の歌声をリピートさせる。

 レコーディングの際、自分の歌声に和声を重ねることは多々ある。ギターのコードにあわせるのだから、それほど難しい作業ではない。
 チューニングはさっき合わせたばかりだし……と考えながら、今度はひとりで歌ってみた 合わない原因は、自分ではなく、彼女の音程にあると考えたほうがよさそうだった。

「はっちゃんもしかして……ちょっと音痴?」

 初音の頬が見る間に赤くなっていく。

「わかってるけど、生まれつきなんだから直しようがないの!」

 むきになって怒っている姿がおかしくて、要は思わず吹き出した。

「へええ、あんなにピアノが弾けるのになあ。でも音痴に生まれつきなんてないよ。喉のコントロールの仕方を知らないだけなんだ。俺とボイストレーニングやろうよ」
「余計なお世話です」
「なんでだよー。二人でハモれば絶対に気持ちいいのにさあ」
「私はピアノが弾けたらそれでいい!」

 初音が声を荒げると、晃太郎が防音扉を開いた。
 約束の時間から十五分がたっている。晃太郎の遅刻は初めてのことだ。

 額から汗を流した晃太郎が一度うしろをふりかえってから言った。

「新しいベーシストを連れてきた」

 サングラスをかけた四十歳半ばの男性がひょいと顔をのぞかせる。

「ベーシストの樹道夫でーす。ミッチーってよんでね」

 年齢にそぐわない軽いトーンのしゃべり方に拍子抜けした。ゆるい天然パーマの茶髪に青いアロハシャツ、クラッシュデニムという出で立ちで晃太郎の横に並んで立つ。おどけて広げた両手の指先は太くて皮が厚そうだった。

「ミッチーはだめだった? じゃあイツッキーでもいいよ」
「樹さん。その年でその呼び方は痛いって言いましたよね」

 晃太郎がめずらしく苦笑いしながらスタジオの中に入ってくる。

「心はまだ十代だってば。晃たんは相変わらず固いねえ」

 にかっと笑って言った道夫の口を、晃太郎はあわてて塞いだ。

 それまで唖然として突っ立っていた初音が笑い声を漏らした。彼らが「晃太郎って呼んでくださいって言ったでしょ!」「晃たんは晃たんだもーん」というやり取りを繰り返していると、要も笑いをこらえきれず吹き出してしまった。

 晃太郎がスティックを取り出すと、道夫もソフトケースからベースを出した。黒い縁取りにこげ茶と赤の躯体を持つフェンダーのジャズベースだ。

 道夫が素早くシールドを取りつけてチューニングを始めると、晃太郎はシンバルやスネアドラムを叩きながらポジションの調節を始めた。

「そういえば、樹さんと同じバンドでやるのって初めてですね」
「しょっちゅう顔を合わせてるのにねえ。要くんが結んでくれた縁かな?」

 会話を交わしながら、それぞれ無関係な音を鳴らす。ウォーミングアップのように思えた音たちはしだいにまとまりを見せ、8ビートのリズムに乗って何かの曲を弾き始めた。

 息を飲んだ。彼らが演奏しているのは要のデビュー曲だった。道夫が弾くベースラインはシングル盤に収録されたものではなく、六月後半にあった野外ライブ用に修介が作ったものだった。

 ギターを構えてBメロから弾き始めた。ベースラインは生前の修介が乗り移ったように正確かつ深みがあって、背筋に寒気が走る。

 そこへピアノが入ってくる。シーケンサーでは再現できない絶妙のタイミングで和音を叩き、右手の高音の動きで歌声のすき間を埋めていく。サビにむかうドラムのフィルインのあと、要の声に重なるように和声が聞こえた。

 歌っているのは道夫だった。揺れる要の発声に寄り添うように三度や五度の音程を駆使して和声を生み出す。全身の毛がそそりたつような快感がかけぬけていく。声は体という入れ物を最大限に震わせて音という音と共鳴する。

 ギターのネックを下ろして息を吐くと、道夫は銀歯をのぞかせて笑った。

「僕は君がデビューしたころからのファンだからね。ライブの音源も全部チェックしてるよ。館山修介くんが若くして亡くなったのは残念だったけど、しばらくの間、君の大いなる野望に付きあわせてもらうよ」

 人差し指を要にむけて銃を撃つ真似をする。晃太郎が「樹さん、古いですよ」とつぶやいた。要は苦笑しながらも、早まった鼓動をまだ抑えられずにいた。

「樹さんみたいな方がバックバンドのメンバーだなんて、本当に信じられません。こちらこそよろしくお願いします」

 深々と頭を下げると、「いやだなあ、もう。イツッキーでいいのにー」というおどけた声が聞こえた。

「ハモリも絶妙でした。これではっちゃんの声が入れば言うことないんだけど」
「おまえ、歌えるのか?」

 晃太郎がすぐに反応した。初音はキーボードを倒しそうな勢いで身を乗り出した。

「もうっ! 歌わないっていったでしょ!」
「えー僕も聞きたいー初音ちゃんの歌声ー」

 道夫がすがるように体をくねらせて言ったので、要は口を大きく開けて笑った。