エリザベート
問われてから暫く、人形は何と応えれば正しく御主人様の意図に添えるかと模索する様に沈黙して居りました。
沈黙の間は彼女を見る者にとって無では御座いません。可憐という言葉が当てはまる様整えられた微笑と仕草が彼女を彩って居りましたから。月は天頂へと昇ったのか、シャンデリアの光が彼女の足元に虹色の影を揺らして落として居りました。
「其れは根元に埋まって居ると云う金のお皿の事かしら」
ゆっくり一度、長い睫毛を上下させて、人形がようやく問い直しました。
「だとしたら其れは幸福の象徴でしょう? 欲望とは縁遠いのではなくて?」
其れは質問者と回答者が入れ替わった瞬間で御座いました。
其れがお判りになられたのでしょう。御主人様は口角を微かに御上げになられました。
「どうしてあれが幸福の象徴と呼ばれるか考えた事が在るかい、エリザベート。あれは見つけた者が居ないのではなく、見つけた者が居た上で其処に在ると云う事が重要なんだ。其れは大きく捉えるならば性悪説の範疇に入る」
わたくし如きには分からぬ話を続けていらっしゃいます時の御主人様の眸は、いつも喜々として居乍らも冷めた色を混じらせて居られます。
人形は其の眸に晒され乍らも姿勢を正して相対して居りました。微笑みは仮面の如き厚顔さで、誂えて作られた様に此の場に相応しく静かで穏やかで在りました。
「あら、でも性悪説は、生まれた時は皆悪で、大きく成れば成る程道徳観念が身につき、発達するというお話でしたでしょう? 逆なのではなくて?」
「いいや、性悪説で合って居るよ。よく考えてご覧、其処に其れを残すという事自体が善行を積む事には成りはしないかい?」
「でも御主人様。金の皿を見つけたのは皆子供ではなかったかしら。此れは性善説の方を実証して居るとは云えませんの?」
人形の言葉に、嗚呼、と小さな息を漏らされますと、御主人様はゆるりと首をお振りになられました。否定と云うにはあまりにも軟らか過ぎて現実味の無い、今代の御主人様特有の所作に御座います。
人形が亜麻色の流れをじっと見詰めて居りました。
「子供だけにしか見えないと云うならば、其れは幸福の象徴にも成らないよ、エリザベート。
・・・だが、そうだね。では人間とはニュートラルな生き物なのだろうと説を変えてみようか。心根か、或いはその表層だけとしても、善を持ちて行えば此れ善行となり、悪を持ちて行えば此れ悪行となる」
そうだろう?、と問い掛けになられた御主人様の笑みには、反論出来る透き間はありません。エリザベートは文字通り木偶の様に頷く事しか出来ませんでした。
御主人様は其れをご覧になられると、満足げに椅子の背凭れに背を付け、膝の上で指を組まれました。
「つまりね、エリザベート。性善説・性悪説に話題を裂いたがね、アダムとイブの故事から鑑みる迄も無く、人間とは本来ニュートラルでなくばいけないのだよ。ニュートラルであるからこそ、善にも悪にも染まる。イブが蛇の誘いに耳を貸した様にね」
「では・・・では、御主人様は何を黄金だとおっしゃったんですの?」
応えを求めた人形の声は、話が途切れる事を恐れる様に微かに震えて居りました。
御主人様は一度視線を伏せられました後、人形の蒼い眸を真っすぐに捕らえられました。微笑を孕んだままの声は変える事無く、微かに眸の奥に硬とした熱をお籠めになられます。其れは黄金色に視えました。
「浪漫さ。浪漫こそがニュートラルな人間に色を付けるのだよ。欲を抱き執着を生む魔の輝きを灯している金の宝だ。・・・さて此処でまた問題だ、エリザベート。
―――執着とは何だい?」
エリザベートは応えられませんでした。
ええ、応えられるはずが無いのです。彼女は正しく人形で御座いましたから。人形とは執着を抱かないからこそ人形なのですから。
御主人様も其れは良く判っておいでだったのでしょう。曖昧に微笑んだ彼女にお向けになられた笑みは、いっそ哀れんで居ると云える程、柔和で、そして冷静でいらっしゃいました。
「応えられないだろう、エリザベート。嗚呼、判って居る」
さっと人形らしく表情を笑みで固定した彼女は、まるで失態に青褪めて居る様でした。
御主人様は其の様子を見乍ら椅子からお立ちになられると、端正な白い御手を着衣の懐へと滑り込ませられました。
わたくしは、固唾を呑んで、只黙って控えて居る事しか出来ませんでした。御主人様の懐に何が入って居るか、良く良く存じて居りました故。
そして其れはエリザベートも同様で御座いました。蒼い眸が御主人様唯一人を映して居りましたのは、逃げる事すら致しませんでしたのは、其のせいだと想います。壊されるならば御主人様の手で。其れがわたくしと人形の唯一にて絶対の願いで御座いましたのです。
御主人様は慈しむ様に痛ましげに笑みを深められた後、懐より鉄の塊を取り出されました。凶器は照明に煌めいて無骨な造形(フォルム)を美しく見せて居ります。
「―――君に教えよう。此れが執着だよ」
一瞬ののち、パン、と黒く渇いた音が部屋に響きました。