エリザベート
皆様お初におめもじかかります。わたくしめはとあるお屋敷に勤めさせて頂いて居ります、影と申します。
わたくしが何かとは、後生で御座います、どうかお訊きにならないで下さいませ。わたくしは卑賤なる影、ただそれだけで御座います故。
そうしてどのような方が此れを御覧になられるのかはわたくし如きには判りませんが、どうぞ僭越ながらわたくしも此の場にて一筆書かせて頂く事をお許し下さいませ。
此の度は折角の機会で御座います故、わたくしの存在理由と言っても過言ではない御主人様の或る一日について書かせて頂きとう御座います。
幸いわたくしは二十六代前の御主人様から今代の御主人様まで、ずっと御信頼頂いて居りまして、家政婦役から執事役まで、ありとあらゆるお屋敷の細々としたことを一手に引き受けさせて頂いて居ります。
無論時折御叱責を頂くことも御座いますが、代々の御主人様は皆様温厚な方ばかりな上、所謂何と申しましょうか、浮世離れした処がお在りでして、わたくし如きのする事等は大抵御目零し頂いて居ります次第に御座います。
そんな常の毎日に御主人様がなさいます事と云えば、言葉遊びと申します物で、今代の御主人様は此れが事の外お好きで御座いまして、毎日お茶の時間になりますと、白い指先でゆったりと人形をお呼びになられるので御座います。
今の人形はエリザベートと申しました。金の巻き毛と蒼い眸が薄紅のドレスに映える白磁の肌の人形に御座います。其の時もわたくしと同様、御主人様の御側に控えて居りました。
「虹の色があれだけ在るのは何故だと思う? エリザベート」
言葉遊びはこのように、御主人様の思いつきから始まります。
今宵はテラスでお茶をお召し上がりになられるようで御座います。
人工的な色を乗せられました眸を月しか浮かばぬ虚空へとお向けになられて、わたくしがお淹れ致しました紅茶を、そ、と常に微笑を湛えた唇にお運びになられる姿は、仕草と同じ程ゆったりとして居られるようにこの眼窟には映りました。
此のような時、御主人様の双眸は静として居られ、決して煩い世相をお映しにはおなりになられません。恐らくは御自分の中に在る言の葉の海をお見詰めになって居られるので御座いましょう。わたくしには想像する事しか出来ませんが、御主人様を伺って居りますと、どうにも其の様に思えてならないので御座います。
「エリザベート?」
二度目に名を呼ばれ、ようやく人形が御主人様へと向けて微笑みました。
淑女の嗜みとして、一度目では決して返事をしないように教育なさったのは御主人様でいらっしゃいます。その為、わざわざ此のように児戯にも似た手順を踏んで御主人様は人形をお呼びになられるので御座います。
「それはきっと人の欲望を掻き立てる為ですわ、御主人様」
人差し指を薔薇色の頬に添えて、金の巻き毛をきらめかせ、鈴の声で人形が応えます。
「食欲・睡眠欲・性欲・排泄欲・知識欲の五つ。ね? 色の数も合いますでしょう?」
エリザベートは外国(とつくに)で作られた人形で御座いますから、わたくし達の居ります日の本の国とは、此のような違いが出てくる時が御座います。
御主人様はカップを音も立てずにソーサーに戻されますと、新たにあえやかな笑みを唇に上らせられました。人工の色の眸には微かに楽しげな色が浮かんでいらっしゃいるように御見受けられます。
「成る程、それは良い応えだね。では此の国に習って七つだったらどうだい? 後二つ、何を出す?」
人形は愛らしく、と云いますのでしょうか、人に不快感を決して与えない様にと洗練された仕草で小首を傾げ、睫毛を、ふわ、と伏せました。蒼い眸が思考を巡らせるかの様にさっと深い色に沈みます。
けれども沈黙は長くは続きません。人を退屈させない絶妙のタイミングで言葉を発する様にエリザベートは出来て居ります故。
此の度も御主人様が彼女の応えに想いを馳せて暫くして、明るい笑みを浮かべながら唇を開きました。幼い仕草で細い指がパンと音を立てます。
「では、支配欲と執着を付け加えますわ。どちらも本能と同じく、過ぎてしまえば毒になる物ですもの」
高らかな声に御主人様が考え込むように微かに笑みを崩されました。薄い唇に繊手を当て、ふむ、とお頷きになられます。
「そう来たか。執着を出すとは想わなかったよ。私は怠惰と云うかと想って居た。ボードレールの詩では、悪魔トリスメジストの下した罪悪の最たるものとして怠惰を上げて居ただろう?」
「あら、ですが怠惰だけで人は罪を犯すことは在りませんわ、御主人様」
ね?、と微笑む人形の所作には誇らしげな色が滲んで居りました。
御主人様は暫く紅茶の紅々とした水面へと眸を向けた後、静かに人形へとお戻しになられました。
「ではエリザベート、もう一つ問わせておくれ。虹が人の欲望を掻き立てる理由・・・それは其の懐に金を抱いて居るからかい?」