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相思花~王の涙~ 【後編】

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「もちろんです。あの日もこうして旦那さまと二人きりで町にいました。旦那さまが燈籠祭に私を連れていって下さって。とても愉しい一日でした。忘れるはずがありません」
 夜空を彩る無数の燈籠を眺めながら、ハンは確かに誓った。
―ソナ、この手巾は私にくれ。そして、私がそなたにあげたあの薬入れは私たちが出逢った日の記念に、そなたが持っていて欲しい。私とそなたの、互いの真心の証として、いつまでも変わらない心として。
―けして、私の側を離れるでない。私もそなたを生涯、側から離さぬゆえ。
 あの夜、二人は初めての口づけを交わした。
 身体ではなく、心の奥深い部分で―例えるなら魂と魂がしっかりと交わったような瞬間だった。
 ハンはソナを見つめた。
「私もあの夜のことは生涯忘れない。ソナ、私の気持ちはあのときとまったく変わってない。どころか、そなたという女を知れば知るほど、ますます惹かれてゆくのを止められない。他人は私を女に腑抜けた愚かな王だとあざ笑っているだろうが、王たる者、惚れた女一人を守れずして、どうしてこの国を民を守れようか。私は約束は必ず守るよ。だから、あのときと同じことを言う。どれだけ刻を要しても、必ず私の隣にそなたを立たせる。ゆえに、私を信じてついてきて欲しい」
 そなたの居場所は未来永劫、変わらず私の側にしかない。そのことをよく憶えておくのだ。
 しまいの科白は囁くような声で告げられた。そこで、ハンの口調が変わった。ソナの気を変えようと故意に明るくしたのだ。
 こういう優しさも出逢ったときから変わらない。王であろうがなかろうが、本当に優しい男だ。ソナの胸が熱くなる。
「先刻、そなたが頑是なき子どもを抱いているのを見て、私もすぐにでも子が欲しくなった。そんなことを考えたことも望んだこともかつて一度たりともなかったのにな。一日も早く、そなたに私の子を産んで欲しい。そなたによく似た可愛い子を」
 ソナも微笑んだ。自分がハンによく似た男の子を抱いているところを想像してみる。と、無性に彼の子が欲しくて堪らなくなった。
「私も旦那さまのお子が欲しうございます。あなたの御子をこの手に抱いてみたい」
 愛する男の子を身籠もり、生む。それは野心とはまったく別の願いであり、女としての純粋な欲求であった。
「私もその日が一日も早く来ることを願っている。結局のところ、そなたを王妃に立てるには、それがいちばんの方法なのだ」
 ソナは眼をまたたかせた。
「つまり、私が旦那さまの御子を産むということですか?」
 ハンが深く頷く。
「そのとおりだ。できれば王子が望ましいが、無理に息子でなくても良い。娘でも、とにかく、そなたが王である私の子を真っ先に生めば、名分は立つ。それを楯に廷臣たちを説き伏せることもできよう」
 ソナはうつむいた。
「ごめんなさい。私がまだ懐妊できないばかりに、旦那さまのお立場を余計に苦しいものにさせてしまっているのですね」
 ハンと結ばれてから数ヶ月。身籠もるにはまだ早い時期だが、話に聞けば、女が身籠もるときは男と身体を重ねる回数の問題ではないともいう。心身共に成熟した女であれば、一夜の交わりでも懐妊することができるというのに、ハンの寵を専らにしながらも、我が身はいまだに懐妊の兆しすらない。
 と、ハンの温かな声が降ってくる。
「子は授かりものだというではないか。私は今まで何人かの女と夜を過ごしても、子はできなかった。もしや、私自身に問題がないともいえぬ。こういうことは、そなただけの責任ではあるまい。気にするな。子はその中、授かるであろうし、授からねば、それもまた所詮は宿命ゆえ、受け容れて何か別の方法を探せばよい」
 そのときである。どこからともなしに、ひらひらと飛んできた蝶がソナの肩に止まった。
 今日のソナの装いは、上衣がはんなりとした紅梅色で全体に黄金の蝶が飛んでいる。チマは薄緑、下方に白い花(木春菊・マーガレット)が大きく手書きで描かれ、チマの上には更にふんわりとやや濃い緑色の紗を重ねている。まるで花びらがひらいたかのようだ。満開の花のような豪奢な装いがハンに愛されて滴るような色香を放つソナの美貌に映えている。
 むろん、この衣装はハンから贈られたものだ。ハンは自らが見立てた衣装を纏い、輝くばかりの美しさを放つソナを眩しげに見つめた。
 白い小さな蝶はソナの肩に止まったまま、飛び立とうともしない。ハンはにこやかに言った。
「どうやら、この蝶はそなたのことを花だと思っているようだ」
 可憐な蝶は雪のように真白で、その蝶が色鮮やかな衣装を纏ったソナの肩に止まっている様はさながら申潤福(シン・ユンボク)の描いた美人画を再現しているかのようである。
「まさに、咲き誇る花も色褪せるばかりの美しさだな」
 ハンは満足げに頷き、ソナを見つめる。その声に愕いたかのように蝶が飛び立った。透き通った白い羽根を小刻みに震わせ、舞うように二人の間を気まぐれに飛び、あっという間に秋の蒼空へと消えていった。
 何故か二人ともに名残惜しく蝶の消えた方向をいつまでも見ていた。やがて、先に口を開いたのはハンだった。
「歩いている中に、町の外れまで来てしまったようだ」
 ソナも言われて初めて気づいた。よくよく見回してみれば、そこはどうやら色町のようである。賑やかな繁華街を抜けた先は妓楼がひしめく一角だ。妓楼は両班や豪商がひそかに通う名の知れた大見世もあれば、それよりは客層の身分が低い小体な見世もある。
 いずれにしろ、昼間は眠るかのようにひっそりと静まった色町は、夜になると別世界のように様変わりする。漆黒の闇に蒼と紅を基調とした提灯の明かりが無数に点り、一種独特の艶めかしい雰囲気が漂い始める。
 客引きの男が声高に通りを行く男を呼び入れようと叫び、妓生が顔見知りを見つけ嬌声を上げてしなだれかかる。
 昼間は惰眠を貪る町が陽が落ちて夜の帳に包まれる刻限になれば、まるで老婆が妙齢の美女に変化(へんげ)したかのように鮮やかに生まれ変わる。酒の匂いと女の歓声、伽耶琴(カヤグム)の音色が入り混じり、更に夜が更けると女のあえかなうめき声や男のくぐもった声、衣擦れの音が夜のしじまに響き渡る。そのせいか、昼間、眠っているように見える今も、淫靡な雰囲気が漂ってくるようだ。
 ソナはそこが色町であると知り、咄嗟に眼を背けた。と、ハンがふいに悪戯を思いついたように声を上げた。
「たまにはこのような場所でソナを抱くのも悪くはない」
「旦那さま―」
 瞳を煌めかせるハンに、嫌な予感がした。ソナが踵を返そうとしたところ、腕を掴まれる。
「逃げるな」
 ソナは振り返り、ハンを軽く睨んだ。
「国王さまともあろうお方がこのようないかがわしい場所に脚を踏み入れてはなりません」
 ハンが肩を竦める。
「宮殿では夜さえ、二人きりにはなれぬ。いつも寝所の扉一枚隔てた向こうには内官や尚宮たちが聞き耳を立てておるのだぞ? たまには、我ら二人だけで思う存分に楽しんでも罰は当たるまい」
 ソナは狼狽え、もがいた。
「とにかく私はいやです。私は妓生ではありません」
 色町に来るのも初めてなのだ。幾ら慣れ親しんだ男相手でも、妓楼で抱かれるなんて絶対にいやだ。