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相思花~王の涙~【前編】

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 ハンからいらえはなかった。重苦しい沈黙が二人の間を漂う。二人はただ課せられた使命であるかのように、脚を黙々と動かした。先に沈黙を破ったのはハンの方だった。
「そなたの伯父御はもしかしたら陥れられたのかもしれないな」
 ソナも頷いた。
「私もそう思う。もちろん、私はまだ伯父さんのところに引き取られる前の話だし、詳しくは知らないけれどね。きっと出来の悪い両班の息子の答案と伯父さんの答案をすり替えたのよ」
 ソナは昔の悔しかった想い出を話すときの伯父を思い出した。そんな時、伯父はいつも酒を飲みながら、男泣きに泣いていた。
―ソナや、この国はどうにもならない身分社会だよ、俺たちはその身分ってものに一生括られて、幾ら能力があっても所詮、市井でしか生きられない。
 ハンが呟いた。
「そう、だったのか。それは気の毒というか、残念なことをしたな。この国のためにも、有能な人材をみすみす逃したことになる」
 伯父と入れ替わりに合格したその右議政の息子がつまり今の礼?判書(イエジヨパンソ)羹月錫(カン・ウォルソク)だった。つまり、国王の生母カン大妃の甥は不正合格で難関といわれる科挙をくぐり抜けたということになる。
 ハンが呆れたように首を振った。
「世も末だな。良い一族の面汚しだ、そのような者が高官となり、その父は議政府の長たる重責を荷っている。そのような奴らが我が物顔に政を欲しいままにしているとは」
 ソナは儚げな笑みを浮かべた。
「もう昔のことよ。それがこの国の現実なんだから、仕方ないと私たち弱い立場の者は泣き寝入りするしかないの。私が水汲みになろうと思ったのは誰に強制されたわけでもなく、自分で考えたから。さっきも言ったように、伯母さんは止めた。でも、借金取りにある日、妓房に連れていかれそうになってね。それで、私も考えたの。このままじゃ、いずれ借金の形に身売りする羽目になってしまう。その前に自分から宮殿に入れば、妓生にならなくて済むでしょう。伯母さんは妓房に身売りするのも宮殿に入るのもたいした代わりはない。結局、後宮に入れば、国王さまの女ということになって、生涯を縛られることになるって言ったわ」
 ハンが眉をひそめた。
「後宮に入ることと、妓生になるのが同じだと?」
 ソナは頷いた。
「私も大差はないと思うわ。ただ私が水汲みになりたいと願ったのは、水汲みなら身売りしたのも同然でも、実際に好きでもない男の人に身を任せなくて済むから。最下級の水汲が王さまの眼に止まることなんてあり得ないでしょ」
 ハンの声が大きくなった。
「では、そなたが王を好きになれば良いではにないか!」
 ソナはプッと吹き出した。
「何でハンがそんなに怒るの? 大体、出逢ってもいない、逢ったこともない男なのよ、たとえ国王さまでも好きになんてなれるはずがないし、人を好きになるのは義務や強制でできるものじゃないわ」
 うう、とも、あぅともつかぬ呻きを洩らし、ハンは口をつぐんだ。それを潮に、ソナは微笑んだ。
「今度はあなたの番よ、ソンは何で内官になったの? 水汲みになるのも訳ありだけど、内官になるのにも訳がありそう。私が訊いても良いのかしら」
 ハンは、もちろんだというように大きく頷いた。
「私はソナのすべてを知りたいと思うのと同じくらい、私のことも知って欲しいと思っている。むろん、何でも訊ねてくれ」 
 ソナは改めて眼前のハンを見た。見つめられた当のハンは柄にもなく照れたのか、心もち頬を上気させている。
 ソナは可愛らしく首を傾げた。
「ハンって、本当に綺麗よね」
 途端にハンの眉が寄った。理解不能といった面持ちの彼に、ソナは彼のすっきりとした立ち姿を見つめながら続ける。
 今日の彼は薄紫のパジチョゴリを品良く着こなしている。鐔広の帽子から顎紐状に垂れているのは服の色に合わせた紫水晶だ。やはり名家の子息なのか、生まれ持った気品は隠しようもない。光り輝く玉がたとえ紛い物に取り囲まれても、内側から妙なる光を放つのと似ている。
 内官になる事情は個々によって違うと聞く。貧しい家の息子がソナのように身売り同然に男根を切って内官見習いになる場合もあれば、上流両班の子息が子だくさんで跡継ぎになり得ず、自ら志願して内官になる場合も稀にはあるという。ハンの場合が後者なのは間違いない。
 ソナは十日前、初めて宮殿で出逢ったときのことを思い出しながら言った。
「初めてハンに逢った時、こんな綺麗な方がいるのかと眼をこすりたくなったくらいだったのよ。そんじょそこらの美人よりも素敵だと思った」
 ハンが愕いたように眼を瞠った。
「おいおい、それは歓んで良いのか? 私は―内官とはいえ、れきとした男だぞ? 男に美人というのは褒め言葉にはならんだろう」
 と、ソナは大真面目な顔で言う。
「ううん、女よりもハンは綺麗。男性に美しいって、確かに褒め言葉のように聞こえないかもしれないけれど、ハンの場合は本当に綺麗なのよ。男でもそうそういないほどの美男で、女でも色褪せるほどなの。そうそう、あなたの言葉を借りるなら、楊貴妃も真っ青になるほどの艶っぽい美貌ね」
「それは光栄だ」
 ハンが心底嬉しげに言い、やがて、吹いた。
「それにしても、やはり、そなたは面白きおなごだ。男の私に、楊貴妃も真っ青だとはな」
 愉快そうに声を上げて笑う彼を、ソナは茫然と見た。今、自分はそこまで滑稽なことを口にしただろうか?
「そんなに笑うだなんて、酷いわ。私は真面目に思うところを述べただけなのに」
 ソナがむくれると、ハンが慌てた。
「済まぬ、そなたが手放しで褒めてくれたゆえ、嬉しくてついだな」
 ハンがふっと笑いをおさめ、真剣な表情になった。
「私が内官になった経緯だが」
 そこでまたしても黙り込んだ彼に、ソナは微笑みかけた。
「あなたが言いたくないのなら、無理に言わなくて良いのよ。誰にでも話したくないことはあるもの。ハンが私とは全然違う、上流両班のお坊ちゃまだってことは私にだって判るから。それだけで十分」
 ソナは少し考えてから、言葉を選んだ。
「もし、私があなたを好きになるとしての話だけどね。私もあなたが言ってくれたように、あなたの実家がどこの何であろうが、そんなことは関係ないの。イ・ハンというただの一人の男性を見て気持ちを決めたい。でもね、私は常民で、あなたは両班。だとしたら、私たちの恋に未来はないわ。身分が違えば、結婚はできない決まりよ」
 それにはハンが即答した。
「それは心配ない。ソナを私の知り合いの養女にすれば良い。ソナ、内官になった事情も含めて、少し待ってくれ。いずれ、きちんとそなたに納得のゆくように説明する。何でも訊いてくれれば話すと言ったのに、手のひらを返すようで、卑怯かもしれぬが」
 ソナは黙って首を振った。それで、構わないと伝えたつもりだ。それは間違いなく伝わったようで、ハンは頷いて微笑み返してきた。
 二人の間を眼には見えない温かなものが流れている。その和んだ空気に誘われるように、ソナは言った。
「ハンがあまりに綺麗だから、私はいっそのこと、男じゃなくて女に生まれれば良かったのにって思ったほどなのよ」
 ハンが眼をまたたかせた。
「何ゆえ、そのようなことを?」