相思花~王の涙~【前編】
ソナが当然と言わんばかりに桜色の唇を突き出した。それが物凄く扇情的な仕種だとまだ十七歳の無垢な少女は知らない。ハンの白い頬が上気した理由も知らず、ソナはしたり顔で続けた。
「あら、もちろん、それはハンが女だったら、内官じゃなくて女官になれるからよ。ハンほどの艶っぽい美人なら、ひとめで国王さまの眼に止まって側室になれるわ。寵姫になって王子さまを生めば、この国の王妃だって望めたかもしれないのよ?」
ハンの頬がひくついた。
「わ、私が国王の寵姫だって?」
ソナは至極真面目に頷く。
「そうよ、あなたほどの色香溢れる美貌なら、国王殿下も一発で落ちるわ。だから、残念だったなと思ったのよ」
ハンは笑い転げた。
「それは流石にない、あり得ないよ」
ソナが頬を不満げに膨らませた。
「あら、絶対にないとは言えないわ。少なくとも、私よりは可能性はあるから!」
ハンは涙眼になってまで笑っている。
「失礼ね」
むくれるソナに、ハンは笑いながら言った。
「そなたの方が寵姫になれる可能性はある」
そして、ふとハンが真顔になった。
「先ほど、そなたは言った。寵姫になって王子を生めば、この国の王妃にもなれると。そなたの口からまさかそのような話を聞くとは思わなかったが、そなた自身はどうだ?」
「どうって?」
無邪気に問い返すソナをハンは複雑そうに見た。
「寵姫になりたいか? この国の母になってみたいと思うか」
「まさか。私はそんなこと、考えたこともありませんよ。私は好きな男に出逢って、お互いに愛し愛されて結婚するの。もし結婚するなら、そういう自然な出逢いが良いから、間違っても国王さまの女になりたいと思ったことはないの」
ハンが独りごちた。
「そこまで徹底的にその気がないと言われると、傷つくなあ」
いっそ、そなたが他の大勢のように女の野心を持っていれば、それでそなたの気を惹くこともできたろうに。
聞き取れないほどの囁きはソナに届くことはなく消えた。
その時、既にソナの関心はもっと別の方向に移っていた。ソナは傍らのハンの袖を引いた。
「ねえ、あっちに行ってみない?」
ソナは通りの斜向かいの露店を指さしている。ハンは大きく頷いた。
「もちろんだ」
先刻から、ハンはちらちらと隣を窺っていた。ソナはたたでさえ大きな瞳をきらきらと輝かせている。ここは先刻、ソナが行きたいといった店である。都でもとりわけ賑やかな目抜き通りは今日も大勢の人々が行き交っている。その両端に露店が店を出していて、ソナがハンを連れていったのは、小間物を扱う露天商だった。
周囲には雑多な店が居並び、色鮮やかな布を売る店があるかと思えば、野菜を売る店、蒸かしたての饅頭屋、生きたままの鶏を売る店まである。逃げ出した鶏を額の禿げ上がった中年の親父が血相変えて追いかけている。鶏があちこちを飛び歩くので、悲鳴が至るところで上がり、かしましいこと、この上ないい。
鶏も身の危機を察しているのだろう、必死に逃げている。この主人と鶏の追いかけっこをいつしか道行く者が立ち止まり、笑いながら眺めている。粗末な木綿の衣服を着た民たちが目立つ中、たまに絹の上物を纏った見るからに両班だと判る者が通る。良家の子女らしい娘が母親とともにハンを興味深げに見つめている。
適齢期の娘を持つ親ほど、怖いものはない。ここでうっかり母娘の記憶に残ってはまずいと、ハンは慌てて帽子を目深に被り直した。
ハンの心中も知らず、ソナの興味は眼の前の小間物に向けられているようである。こういうところは世俗の欲得とは関係なく、若い娘らしい。
不思議なものだった。これまで自分に欲得づくで近づく計算高い女たちをどこまでも嫌悪してきた。愛想笑いを浮かべ、自分に媚を売りつける貴族の娘たちに何度反吐が出そうになったことか。
なのに、この少女の歓心を買うためなら、裏腹に己が立場や地位を利用しても構わないとすら思う。
―可愛い。
二十五年も生きていて、これが初恋とは男として情けない限りだが、実のところ、ハンは生まれて初めて女を欲しい思った。生き生きとした黒曜石のような瞳はいつまで見ていても飽きない。
あの漆黒の瞳に映る男が自分一人になれたら、あの瞳の底にとことん溺れてしまえたらと、彼は本気で考え始めていた。
だが、この娘が自分を取り巻く世界の女たちのように、地位や立場で心を動かさないのは既に承知している。そこに最初は惹かれたのだが―、今となっては、いささかもどかしいほど、欲のない娘だ。
娘と過ごした時間はこれまでの人生でかつてないほど、心地良く愉しいものだった。こんな可愛い娘を妻とし、これから先の生涯を過ごせれば、どんなにか幸せなことだろう。
けれど、無理強いはできないし、したくない。ハンの立場をもってすれば、この少女を自分のものにすることは容易い。だが、それでは、彼女は永遠に心を閉ざし、自分を見てはくれない。無欲な娘だから好きになったのに、その無欲さが今は逆に恨めしい。
ソナはじいっとある一点ばかりを見つめている。それは黄緑色の石のついたノリゲだった。薔薇を象った黄緑の玉の下に同色の長い房がついている。あれが欲しいのだろうか。
欲しいのなら、買えば良い。大抵の女なら、こういう時、あからさまに口には出さずとも、態度で欲しいと訴えてくるものだ。
その前に、ハンは口を開こうとした。
―私が買って上げよう。
が、ふいにソナが振り返った。
「行きましょう」
ハンは眼を瞠った。
「しかし―」
あのノリゲが欲しいのではないのか?
とは到底言えなかった。誇り高いソナがそのようなことを言われて歓ぶとは思えない。
ソナはそのままハンの方を振り向きもせずに小間物屋に背を向けて歩き出した。
「おい、待ってくれ。私を置いてきぼりにするつもりなのか!」
叫べば、漸く少女が立ち止まった。笑いながら手を振っている。飼い主に呼ばれた犬よろしく、尻尾を振ってソナに向かっていく自分が情けない。が、既に彼の心はもうどうにも引き返せないところまでソナに惹かれていた。
以前から一人の女にすべての心を預けてしまうほど惚れるのは危険だと思っていた。ましてや、自分の前にそんな女が現れるはずがないと。母を初め、彼が拘わってきた女たちは皆、男の歓心を買うことしか頭にない。
従順で淑やかであった最初の二人の妻たちでさえ、そういう女の醜い部分を持っていた。もちろん、仮に彼が妻たちを心底から愛していたならば、そういう態度も可愛いと思えたのかもしれない。であれば、やはり彼は妻たちを愛してはいなかったのだ。
その証拠に、ソナに対してはこんなにも心が烈しく揺れる。彼女が望むことならば、何でもしてやりたい。あの宝石のような黒い瞳が煌めく様を見たい。
もしソナが自分の気を惹きたいと媚態を見せれば、彼は歓んで餌を与えられた犬よろしく飛びつくだろう。
何ということだ。愚かにも自分はついに恋に堕ちてしまったのだ。かつてあれほど嫌悪し、女一人のために血迷い国を傾けた愚かな唐の皇帝のように。最早、生涯を共にする相手は自分で見つけるなどと、大義名分の綺麗事を言っている余裕もないほどだ。
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ