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相思花~王の涙~【前編】

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 チマチョゴリは全体的に橙色を基調としている。上衣はごく淡いアイボリー、袖の裾に咲き誇る牡丹とつがいの色違いの蝶が刺繍されている。チマは鮮やかな夕陽の色をそのまま写し取ったかのようで、全体に金糸で桜花が舞う雪のように豪奢に描かれていた。その上には薄物の黒の胴着(ベスト)、胴着の襟元にはチョゴリの袖に施されたのと同じ牡丹が縫い取られていた。
 健康的な若々しさが魅力の、彼女の花なら開く直前の蕾といった風情を際立たせている。
 弟ヨジュンの養父孫太善(ソン・テソン)が宮廷入りのお祝いにと贈ってくれた晴れ着である。ソナがたった一着だけ持っている豪奢な服でもあった。
 宮廷入りに際して持参した数少ない手荷物の中に入れてきた。いつもは室の箪笥に大切に仕舞っている。 
「そうか」
 ハンは頷き、まるで初夏の陽光に眼を眇めるかのように彼女に眩しげな一瞥をくれる。
「ソナは今、弟の養い親と言ったな。そなたに弟がいるのを今日、私は初めて知った。そう申せば、私たちはまだ出逢って日も浅く、互いに何も知らない。今日はソナの家族についても話して貰いたいのだが、構わないだろうか?」
 いかにも彼らしい控えめな言い方に、ソナは軽く頷いた。
「それは構いません。でも」
「でも?」
 ハンが小首を傾げるようにして囁く。寄り添い合うようにして並んで歩きながら、ハンは心もち身を屈めソナの耳許で囁きかけている。傍から見れば、さぞ睦まじい恋人同士の親密な光景に見えるかもしれない。そう思うと、ただでさえハンがすぐ側にいるというだけで動悸を打つソナの心臓はもう破裂しそうだ。
 確かに、この距離はあまりにも近すぎた。互いの体熱が伝わってくるのではないかと思うほどの至近距離だ。こんなにぴったりと身体を密着させるほど寄り添っていては、彼のすぐ側で跳ねる鼓動がその原因である彼自身に聞こえてしまうのではないかと心配でならない。
「どうした? 何か気掛かりでもあるのか」
 ソナは小さな溜息を零し、うつむいた。
「何故、ハンはそんなに私の家族の話を聞きたいの?」
 応えはすぐにあった。
「そなたのことなら、何でも私は知りたい。生まれてから今まで、どこでどのようにして育ったのか、何故、後宮に仕えようと思ったのかも」
「それは―どうして? 何故、私のことを知りたいの?」
 ハンが不思議そうな表情になり、それから立ち止まった。つられて、ソナも歩みを止める。
「ソナ、今日、そなたは私の方をまともに見ようとしない。何ゆえ、私から眼を逸らすんだ?」
 ソナは下を向いたまま呟いた。
「ハンの気持ちが判らないから」
「私の気持ちが判らない?」
 ハンはソナの科白をそのままなぞった。
「私は今し方も気持ちは、はっきりと伝えたたつもりだが」
 ハンがソナの顎を人差し指で持ち上げた。
「そなたの心が私から離れない限り、私の心もまたそなたから離れたりはせぬ」
「何も知らない世間知らずの娘だと、私をからかっているの?」
 ソナが泣きそうな声で言うのに、しばらくハンは黙り込んだ。
「何故、そんな風に考えるんだ?」
 ややあって返ってきたハンの声は変わらず優しかった。
「世の常の男はどうかは知らないが、私は平然と嘘や心にもない甘い科白をくどき文句にすらすらと並べ立てるほどの女タラシではないよ。むしろ、自分がそういう男であったならどれだけ気が楽かと思うけどね」
 ソナが何も言わないので、ハンもまた深い息を吐いた。
「これでも、私は本気でソナを口説いているんだよ」
 ソナが消え入りそうな声で言う。
「でも、おかしいわ。私たちって、まだ逢うのはこれが二度、あなたが言ったように何もお互いについて知らないのよ。なのに、口説くだなんて、どんな風に考えたら、そういうことになるのか正直、私には判らないの」
「好きになったから、では応えにならないかな、ソナ」
「―え?」
 ソナが弾かれたように顔を上げる。そのまなざしの先に、ハンの真剣な顔があった。
「恋に落ちた―、それが君のことを知りたいと思う理由ではおかしいかい?」
 ソナは小さく首を振る。
「そんなに早く恋に落ちるものなのかしら」
 ハンが少し笑いを含んだ声音で言った。
「そなたは随分と守りが堅いというか、用心深いんだな。私はソナのそういう男慣れしていないところもとても好きなんだけど、あまりに頑なすぎると困ってしまう」
 ハンの手がまたソナの頤(おとがい)にかかった。そっと仰のかされたソナの瞳に、ハンの綺麗な顔が映っている。その刹那、ソナの心に震えが走った。何なのか、得体の知れない震えが身体中を駆けめぐってゆく。
 ソナと視線を合わせたままの体勢で、ハンは言った。
「恋に落ちるのに、時間は関係ない」
 やや掠れた彼の声で囁かれたそのひと言は、ソナに予想外の衝撃を与えた。先刻、身体に走った震えどころではない、まるで熱い熱に炙られるかのように身体全体が燃えた。
 彼のまなざしも言葉も、そのすべてがソナを見えない鎖で縛り付けてしまったかのようだ。彼の美しい貌から眼が離せない。
「ハンは狡いわ」
 ハンは心外そうに眼をまたたかせる。
「私が狡い? 何故?」
「あなたみたいに素敵な男(ひと)にそんなに熱っぽく見つめられて真顔で囁かれたら、女は皆、その気になるでしょう」
「何か嬉しいような嬉しくないような複雑な気分だな。その言い様では褒められているのか責められているのか判らない。ソナはどうも私を信用してないようだけど、どうやったら信じてくれるんだろう」
 ソナは笑った。
「あなたを信用していないわけではないのよ。ただ、どうして、あなたのような人が私みたいに平凡で目立たない娘にそんなことを言うのか判らなくて」
 一瞬、ハンの声が高くなった。
「ソナ、そなたはどうも自分の価値を理解していないようだから、この際、ちゃんと教えて上げよう。私から見れば、そなたは平凡だとも目立たないとも思わない。ソナの生き生きとした瞳を見ていると、吸い込まれそうで、この瞳に溺れてみたいと男なら誰でも願うはずだ。もちろん、楊貴妃のような触れなば落ちんの色香溢れるって部類の美人ではないけど、大輪の花が開く前の控えめな色香がある。そなたは恐らくそれに気付いていないのだろうね」
 ソナは小さく息を吸い込んだ。
「ハンってば、寄りにも寄って楊貴妃だなんて、比べるものが凄すぎる。向こうは皇帝を惑わせ国を滅ぼしたほどの絶世の美女よ、または稀代の妖婦とも言われているけど。間違っても、私に国王さまを惑わせる魅力も色香もないのに」
 ハンが窺うように問う。
「妖婦にたとえたりしたから、気を悪くした?」
「まさか、一国の皇帝を惑わせた程の美女と一緒にして貰ってむしろ光栄よ。でも、何度も言うけれど、私にそんな魅力はないわよ」
 ハンは真顔で首を振った。
「少なくとも、私は魅力的だと思うよ。昔の清国がまだ唐といっていた時代の皇帝のように、寵姫に腑抜けた男と末代までの笑いものにはなりたくないけどね」
 ソナは笑顔になった。
「ハンは皇帝陛下ではなく、内官だもの、そんな風に言われることはないから、大丈夫」
 ハンも笑って頷いた。