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相思花~王の涙~【前編】

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 彼は深い孤独を抱えているように見える。根拠がない予感のようなものにすぎないけれど、そんな男が無知な娘を端から騙すつもりで近づくとは思えなかった。
 ソナは床から出て、室の片隅にある文机の引き出しを開けた。そこから出てきたのはハンがくれた小さな塗り薬だ。白磁の蓋に小さな蝶が舞っている。
 ソナはそっと蓋を開け、香りを嗅ぐ。清涼感のある香りはハン自身の身体から漂ってきていたものと似ている。今頃、彼はソナの手巾をどうしたのだろうか? 勢いで持ち帰ったけど邪魔になって棄ててしまった?
 いや、彼であれば、そんなことはしないだろう。ソナは小さく首を振り、溜息をついた。こんなのは私には似合わない。
 ソナはいつだって、自分自身で考え判断し、道を選んで歩いてきた。後宮入りしたのも誰に強制されたわけでもなく、ソナが考えて結論を出したことなのだ。ならば、これからも同じことをするだけではないか。
―あなたは、一体どうしたいの? シン・ソナ!
 ソナは自分に向かって先刻から際限なく繰り返してきた問いを投げてみる。
 けれど、返ってくるのはいつも同じ応えばかりだ。
―私はハンに逢いたい。もう一度だけ逢って、彼にちゃんと確かめたい。
 初対面の自分に何故、過去の不幸に終わった結婚の話をしたのか? もう一度、逢いたいと言ったその心の真実は―。
 もしかしたら、もう逢わない方が良いのかもしれない。訊かない方がソナも傷つかないで良いのかもしれない。世の中には知らない方が幸せなこともあるとよく言うではないか。
 しかし、知らなければ、ソナはこの先もずっと後悔しながら生きていくことになるだろうし、イ・ハンという男の面影がさまよえる過去の亡霊のように彼女の心から消えることはないだろう。
 真実を知って傷つくかもしれないが、それは一時のこと。とことん傷ついても、真実を知らないまま、ハンの亡霊に囚われたまま生きていくよりはよほど良い。
 ソナは薬器の蓋を閉め、描かれた二羽の蝶を愛しむような手つきで撫でた。また元どおりに小さな容器を引き出しに戻した。
 夜がそろそろ明けようとしている。格子枠の填った障子窓から薄い陽差しが差し込んでいた。狭い室のそこここにまだ夜明け前の蒼さが漂っている。その夜明け前の静謐さの中に、ソナ自身の散り散りになった心も漂っているかのようだ。
 ひと眠りできる時間は残されているが、どうにも眠れそうにない。眠れなかった挙げ句、床の中でうっかり微睡んでしまっては一大事である。朝一番の仕事にに遅れては、それこそ鞭打ちものだ。昨日は上からの通達で事なきを得たが、何度もそんな奇蹟が起こるはずもない。
 ソナは深い息を吐き出し、そのまま起き出して身支度を始めた。

 真心の証(あかし)〜逢瀬は美しく儚く〜

 結局、そのきっかり十日後、ソナは約束の場所にいた。イ・ハン、あの漆黒の闇に爛漫と咲き誇る夜桜のように艶麗な美貌の内官に言われたとおり、宮殿の正門を少し離れた場所に佇んでいた。
 だが、幾ら待っても、彼は来なかった。
―必ずだぞ、私はずっと待っているから。
 幾度も繰り返した挙げ句、約束をあっさりと破る、そんな最低の男だったのだ。それならばそれでいっそ良かった。真実をちゃんと見極められたのだから。これからはあんな不誠実な口先だけの男のことなんか忘れて、前を向いて生きていけば良い。
 あんな男のために涙を流すなんて、最低だ。だから泣かないと思う傍ら、溢れ出る雫が頬を流れ落ちる。意地でも泣くまいと思いつめている彼女は自分が涙を流していることにも気付いていない。
 そう思って踵を返しかけたときのこと、いきなり背後から目隠しをされ、ソナは焦った。
―な、何の?
 そういえば、一内官といえども、宮殿では生命を狙われるほど物騒だと、ソンは先日、話していた。けれど、常民のソナを殺害しても罪に問われるだけで、何の益もないし、誘拐されたとしても支払える身代金などない。今は家族三人で伯父の残した借金を払うのに精一杯なのだ。
 それとも、変質者の仕業だとか? そこまで考えて、咄嗟にソナは肘鉄を相手に喰らわせていた。
「ツ―」
 ソナから手が離れ、うめき声が洩れる。身の危険を感じて力一杯肘をぶつけてやったため、かなりの打撃を与えられたらしい。ソナはしてやったりと背後を振り返り、蒼褪めた。ハンが右の上腹部を押さえ、痛みに呻いている―。
「ハン! あなただったの?」
 愕き駆け寄ると、ハンはその美貌をいまだ苦痛に歪めつつも気丈に微笑んで見せた。
「やあ、君はどうもかなり勇ましい娘のようだ。同じ女性にこう立て続けに何度もやられたのは初めてだよ」
「あの、それは」
 ソナはしどろもどろになった。冷静になれば、彼からかすかに漂う香りは紛れもなくあの塗り薬、薄荷の爽やかなものに似ている。それなのに、変質者と間違えるなんて、何という失態だろう!
 ソナが正直に打ち明けると、ハンは露骨に傷ついた表情になった。
「それは冗談ではなく傷つくよ。寄りにも寄って変質者扱いされるとは」
 と、ハンが手のひらをしげしげと見つめた。
「ところで、ソナは今、泣いていた?」
 え、と、ハンを見上げれば、彼の艶麗な美貌がわずかに曇っていた。綺麗な弧を描く眉がかすかにひそめられている。美男というものはどんな表情をしていても見惚れるほど美しいのだと今更ながらに思わずにはいられないソナである。
「えっ、そうなのかしら、私―」
 知らず手のひらを頬に押し当て、初めて自分が泣いていたことを知る。
「でも、何で―」 
 物問いたげな眼を向けると、ハンは困ったように微笑んだ。
「私の手が濡れていた」
「あ―」
 言いかけたソナに、ハンが頷いた。ソナは頬を赤らめた。
「私、あなたがもう来ないのかと思って」
 ハンはハンで、意外なことを言われたとばかりに返す。
「私は私で、ずっとそなたを探していたんだよ。私は正門の左側寄りを探していたんだ。でも、ソナは右側にいた、ゆえに探し出すのに刻をかけてしまった」
「そうだったの」
 うつむくソナを覗き込み、ハンが優しい声音で言った。
「心配しないで、私はけして約束を破ったりはしない。ソナの心が私から離れない限り、ソナがもう逢いたくないと言わない限り、私から離れたりはしない」
 あっさりと告げられた言葉は、しかし、重大な宣言のようでもあった。が、彼はソナにその言葉の意味を深く考える暇も与えず、喋り続ける。
「今日の服も素敵だ」
「本当?」
 ソナはかすかに頬を染め、改めて自分の姿を見た。今日は精一杯お洒落をしてきた。運良くハンが来たとしても、これが最後の逢瀬(デート)になることだってあり得るからだ。彼の記憶に残る自分を最高のものにしたい、そんな少女らしい願いだった。
「この服(チマチヨゴリ)は弟の養い親となった方が用意して下さったものなの」