相思花~王の涙~【前編】
「幾らあなたがそんな風に思っても、当の国王さまが思わない限り、後宮の掟は変わらないのよ」
少し考え、続ける。
「あなたは優しい人なのね。この後宮に来て、良いことなんて一つもなかったけど、今日、あなたに出逢えたから良かったわ、私」
「―」
内官が胸をつかれたような表情になった。
「その服装は水汲みだな? 私もそなたに逢えて良かったよ。後宮には王の気を惹くことしか考えておらぬ女ばかりだと思い込んでいたからね。せめて名を教えてくれないか」
ソナはまた笑った。
「私の名前なんて聞いても仕方ないのに。私の名前はソナよ」
「姓は?」
「シン氏。あなたの名前を訊いても良い?」
「イ・ハンだよ」
ソナは頷いた。
「イ・ハン。男らしくて良い名前だわ」
言ってから、慌てた。
「ごめんなさい、嫌みとかじゃないのよ」
初めイ・ハンと名乗った内官は何のことか判らない様子だった。なので、ソナは続けた。
「だから、あなたは内官でしょ。内官の人に男らしいなんて言い方は失礼かと思って」
頬を染めるソナを見て、ハンは眼を細めた。
「そなたは可愛いな。その―、あからさまな言い方で失礼かもしれないが、男慣れしていないというか、純粋なところにとても惹かれる」
その言葉に、ソナは更に真っ赤になった。男の指先がまた伸びて、そっとソナのまだふっくらとした頬に触れた。
「こんなに赤くなって、可愛いな」
触れた指先は温かい。指先はすぐに離れたが、その温もりが消えてしまったことに一抹の淋しさを感じたのは何故だろう?
内官がにっこりと笑った。
「もう一度、逢えないか?」
―なんて素敵な笑顔なの。
また鼓動が跳ね、心ノ臓の音がうるさくなる。頬がますます熱くなるのに、自分ではどうしようもなかった。
けれど、ソナは言った。相手が優しげな人だから、余計に言わなければならないと思ったのだ。
「あなたの気持ちは嬉しい。でも、私は常民なのよ。両班の娘じゃないから、残念だけど、あなたとお付き合いすることになっても、何の役にも立てないわ」
内官であっても、家門を守るために結婚し、養嗣子を迎えるのが通例である。また、女官が国王の女といわれてはいても、願い出て許されれば、円満退職も叶わぬ望みではなかった。こんな美しい男の妻となれるなら、幸せかもしれない。しかも、彼は優しい。前途有望な内官であれば、国王の信頼も厚く、いずれは内侍府長(ネシプサ・宦官を統率する内侍府の長官)になれる可能性もあった。
夫婦というものは何も肉欲の交わりだけがすべてではない。たとえ肉体的に繋がれなくても、心が信頼で繋がっていれば幸せかもしれない。まだ未通で男を知らないソナは、男性機能を失った内官でもまた別の手段で女に肉体的歓びを与えられることを知る由もない。
このときのソナは純粋に心からそう思っていた。こんな優しい男の妻になれたら、どれだけ幸せだろうかと。しかし、平民の自分ではこれから先、彼の朝廷での出世を約束してあげられはしない。仮にソナが相応の両班の娘だったら、父親が娘婿である彼の後ろ盾となることもできただろうが、それは無理な話というものだ。
ソナの話を内官は黙って聞いていたが、やがて晴れやかな笑顔を向けた。
「そんなことは心配する必要はない。私は、そなたに出世を期待して欲得づくで逢いたいなどと言っているのではないよ」
そこで美しい貌に翳りが差した。月が雲に閉ざされるような淋しげな面にはぬぐい去り難い孤独に覆われている。
「私はこう見えても、もう二度も妻に先立たれて寡夫(やもめ)なんだ」
刹那、ソナは息を呑んだ。
「内官なのに、その歳で二度も結婚したの?」
内官はますます淋しげな表情になる。自分のせいではないのに、まるでソナが彼を虐めているような、こんな表情をさせているかのような錯覚に陥ってしまう。
「仕方がないんだ、それは家門を守るためだから。どの妻にもそれなりの情は持っていた、でも、心から愛せはしなかった。周囲は早く三人目の妻を娶れと煩いくらいにせっつくけど、もう結婚には懲り懲りなんだ。愛のない結婚、偽りの幸せを演じるのはたくさんだ。今度、迎える妻はちゃんと自分自身で選びたいと思っている」
自分に向けられた彼の視線が心なしか熱を帯びているのは気のせい?
ハンが耳許で囁いた。
「十日後の昼過ぎ、また逢おう。宮殿の正門を出て少し離れた場所で待っていてくれ」
この塗り薬と手巾は交換しよう。更に彼はそう言って小さな陶器をソナの手に握らせた。
「必ずだぞ、私はずっと待っているから」
そのひと言を残して、ハンは消えた。油断なく周囲を窺って、まるで誰かに自分たちが一緒にいるのを見られるのを怖れるかのような警戒ぶりに、ソナの心は少なからず傷ついた。
確かに内官と女官の恋愛は禁止されているけれど、それは所詮は表向きのことにすぎないのに。何故、ハンはそこまで人の眼を気にするのだろう。
ソナはハンのくれた塗り薬をギュッと手に握りしめ、いつまでもそこに立ち尽くしていた。
結局、その日、金尚宮からの叱責はなかった。以前に何度か水瓶を落として割ったときは必ず鞭打ちの刑が待っていたのに、面妖なこともあったものだ。何でも上の上の方からのお達しがあり、ソナのその日の失敗には一切咎めなしと金尚宮が言い渡されたとのことだった。
その夜、ソナは夢を見た。哀しい夢だった。出逢ったばかりのあの男―イ・ハンが微笑みかけている。でも、その視線の先にいるのは自分ではなく、後ろ姿を向けた他の二人の娘だった。ソナはそれを哀しい想いで見つめているだけ。
ハンは二人の娘の背後にいるソナには気づきもしないように、極上のあの素敵な笑顔を浮かべている。
明け方、ソナは泣きながら目覚めた。緩慢な動作で上半身を起こすと、頬が濡れている。その時、彼女は自分が泣いていたのだと気付いた。
あの男―イ・ハンはソナの心を一瞬で鷲掴みにしてしまった。けれど、幾ら考えてみても、あの妖しい美貌の宦官には謎が多すぎた。まず初対面にも拘わらず態度があまりにも馴れ馴れしすぎた。堂々としていると言えば聞こえが良いが、普通、たしなみとか遠慮というものがある。
内官とはいえ若い男が娘にいきなり触れたりするだろうか? また、口がやたらと上手いのも気になった。気遣いができるのは優しいと最初は思ったが、女の気の惹くことに慣れているともいえる。
もしかして、自分はからかわれているのだろうか?
だとすれば、それはそれで腹立たしい。けれど、それよりももっと心が泣いていた。優しげな言葉と甘い思わせぶりな態度でソナをその気にさせておいて、恋愛遊戯(ゲーム)でもしているつもりだとでも? 無知で世間知らずな小娘が自分に夢中になる様を面白がっている?
だが、ハンを疑う一方で、彼を信じたがっているもう一人のソナも確かにいた。
あの漆黒の夜を閉じ込めたような瞳に、ひと欠片の嘘があっただろうか? 不躾に触れられてソナが彼を叩いたときでさえ、彼は怒るどころか謝罪してくれた。彼の数々の言動を思い起こす時、間違いなく彼が誠実な男であると思える。
また、時折、美しい面をよぎる孤独の翳が何より彼の言葉は真実であると告げてはいないか?
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ