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相思花~王の涙~【前編】

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 やはり内官だからか、背は高いが、全体的に線も細い典型的な優男だ。顔色は陽差しに透けてしまうほど白く、いっそ蒼白いといえる。やはり、女装するとすれば、この顔色の悪さは白粉と頬紅で少し手を加えた方が良い。そうすれば、文句の付けようがない美人になるだろう。
 一方、内官はよもやソナが頭の中で自分を着せ替え人形よろしく女装させているとは想像もしておらず、おろおろとソナと砕け散った水瓶を交互に見ている。
「申し訳なかった。私がもう少し注意していれば良かったのだ」
 年の頃は二十代前半から半ばほどか。ソナより年上であるのは間違いない。内官も女官と同様、幼い頃に入宮して見習いから叩き上げていく場合が多いから、この内官もソナより宮廷暮らしは長い先輩だ。一内官にしては口の聞きようが多少ぞんざいな気がするけれど、身分社会のここでは仕方ない。
「いいえ、私も前をよく見ていなかったから」
 ソナは弱々しく微笑み、またしゃがみ込んだ。
「また尚宮さまに叱られちゃうけど、仕方ないわ。私の失態だもの」
 王さまとまで高望みはしないが、せめて美男の内官との出逢いはないか―などと、馬鹿げた妄想に耽っているから、こんなことになる。今後はもう少し地に足を付けて地道なことを考えてよう。ソナは猛省しつつ、飛び散った欠片に手を伸ばす。
 と、欠片の鋭い切っ先が指を傷つけた。
「痛っ」
 悲鳴を上げた途端、内官が叫んだ。
「だから言っただろう!」
 咄嗟に腕を掴まれた次の瞬間、ソナは茫然とした。俄に我が身に起こった出来事が信じられない。 
 気が付けば、ソナのほっそりとした指先が内官の口に銜え込まれていた。
「下手にばい菌が入れば、化膿するだけでは済まないからな」
 内官の口に含まれた指先はほんの一箇所なのに、その箇所だけが不自然なほど熱を帯びている。更に、その熱が次第に身体中にひろがっていくようで―。ソナは思わず指を引き抜いていた。
 パアンと乾いた音が響き、相手の男よりもソナ自身がまた惚(ほう)けたように立ち尽くした。
「ご、ごめんなさい」
 見も知らぬ男の頬を強く打ってしまったことに衝撃を受ける彼女に、しばらく呆気に取られていたらしい内官は声を上げて笑った。
「そなたは面白い女だな。私は生まれてこのかた、誰にも叩かれたことはなかったのに」
 ソナは訝しげに内官を見た。
「叩かれたことがない? 普通、親とかに叱られたりしない?」
 伯父夫婦には可愛がって貰ったけれど、その分、愛情のこもった叱責を受けたこともある。もちろん叩かれたこともあった。
 内官は悪戯っぽく笑った。
「いや、母にも叩かれたことはない」
 それにしても、何と極上の笑顔であることか! やはり、この男は男ではなく女に生まれるべきであったに違いない。女として後宮入りすれば、さぞかし栄達の道が開けたことであろうのに。内心では男を気の毒に思わずにはいられない。 
 知らず男の笑顔に見惚れ、ソナは我に返って小さく咳払いをする。
「そ、その、とにかく、ごめんなさい。痛かったでしょ」
 男があまりにも背が高いので、小柄なソナは伸び上がるようにして内官の頬に触れた。
「赤くなっているわ」
 ソナは袖から手巾を取り出し、慌てて井戸端に戻り水を汲み上げて手巾を浸す。固く絞ったそれを内官の頬に当てた。
「びっくりしてしまったの、その、こんなことは初めてだから」
 赤くなって言うと、内官は笑いながら頷いた。
「私の方こそ、いきなりなことをして愕かせてしまったようだ」
 気詰まりな沈黙が流れる。
「手を貸してごらん」
 殴られたことに懲りたのか、内官はちゃんと今度は事前に言った。ソナが恐る恐る手を出すと、彼は大きな手のひらにソナの手を握り込む。彼の手が大きいので、ソナの手は随分と小さく見えた。やはり外見は女にしか見えない優男でも、男は男ということなのか。
「随分と荒れているな」
 男もまた袖から何かを取り出した。小さな陶器の入れ物の蓋を開け、指で中身を掬っている。
「これは清国渡りのよく効く塗り薬でね。母がいつも持たせてくれている。宮中はいつ何があるか判らず、曲者が現れて傷つけられるようなことがあるかもしれない。ゆえに、そのようなことがあれば、すぐに塗るようにと。消毒だけでなく軽い解毒作用もあるから、きっと化膿はしないはずだ」
 男は優しく言い、傷つけた指だけでなく、ソナの荒れた指先に丁寧に薬を塗ってくれた。
「ありがとう。でも、宮中って、そんなに物騒なところなの?」
 少なくとも自分は生命を狙われたことはないが。不思議に思って訊くと、内官は何故か淋しげに笑んだ。
「仕方ないんだよ。それが私の宿命みたいなものだから」
「―そうなの」
 内官は王の影ともいわれる。いつも王に寄り添い、その御意を聞くことができるというのはある意味、最も王に近い場所であり、その分、王から寄せられる信頼も並々ではない。歴代王のお付きの内官の中にはそうやって絶大な信頼を勝ち得、権力を握った者もいたという。時にその権力は表の朝廷の大臣をも凌いだ。
 そういう立場だから、生命を狙われることも多いのかもしれない。無理にそう自分を納得させて、ソナは内官に言った。
「厚かましいんだけど、この塗り薬をもう少しお借りして良いかしら」
「それは構わないが」
 不思議そうな彼の視線を避け、チマの裾を少しだけ持ち上げ、脹ら脛の傷にも塗った。少し薄荷の香りがする塗り薬は、塗ると清涼感がある。いかにも効きそうだ。
「待って」
 いきなり内官がチマの裾を大きくめくったので、ソナは悲鳴を上げた。
「何をするの!」
 また思わず手を振り上げそうになるのを堪え、ソナは内官を睨んだ。
「あなたは失礼すぎるわ。幾ら内官っていっても、一応、あなたは男で私は女なのだし」
 あからさまには言えなくて、頬を赤らめて押し黙るしかない。
 内官は溜息をついた。
「ごめん、だが、別に下心があってやったわけではない。この傷、鞭で打たれた跡のようだね」
 ソナは不承不承頷いた。
「そうよ、私がヘマばかりするもので、尚宮さまにお叱りを受けたの」
 内官は首を振った。
「それにしても、酷い。もう一度だけ見せて」
 断ってからチマの裾を心もちめくった。少しの間眺めてから、彼はすぐに手を放した。
「そなたの直属の尚宮は?」
「金尚宮さまよ、それがどうかした?」
 内官は首を振った。
「いや、別にどうもしないけど」
 ソナは微笑んだ。
「私のことを心配してくれるのはありがたいけど、どうにもならないわよ。私もあなたも所詮は下っ端の内官だし女官だもの。私たちは国王さまのために忠義を尽くすのが役目だから。粗忽者は鞭打たれても文句は言えないの」
 言い終わらない中に、やや激した口調が返ってきた。
「それは違う!」
 これまでの彼とは別人のような強い口ぶりに、ソナは呆気に取られて彼を見つめるしかない。内官はやや照れたように小首を傾げた。
「私はそなたの申すことは違うと思う。確かかに内官も女官も王に忠義を尽くすのは本筋だが、その前に、まず仕える者の人格も重んじられるべきだ。無闇やたらと鞭で打ったりして傷つけるのは良くない」
 ソナは笑った。