小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

相思花~王の涙~【前編】

INDEX|3ページ/27ページ|

次のページ前のページ
 

 最初、ソナは後宮という場所がここまで身分社会だとは考えていなかった。後宮入りする前、身許保証人になって貰った学者―弟の養父の話では、後宮も表の官僚世界と同じで、才能さえあれば出世の道は開けるというと聞いていたからだ。
 たとえ最初は最下級の水汲みとして入っても、その働き次第では更に上へ、一人前の女官にも取り立てて貰えるし、女官から更に尚宮へと出世するのも夢ではない。その話を鵜呑みにしていただけに、現実に我が眼で見た後宮とのあまりの落差に愕然とした。
 後宮には王の住まいである大殿(テージヨン)に仕える至密(チミル)、針房(チンバン・王や王妃を初め王宮に住まうすべての衣装を仕立てる)、繍房(スバン・同じく衣服に施す刺繍を担当)、水刺間(スラッカン・御膳所)、洗踏房(洗濯を担当)などその他様々な担当部署に細かく分かれている。それぞれの部署に女官が配属され、更にそれを統率する部署の責任者である尚宮がいる。
 それらの各部署の尚宮の上に後宮の女官すべてを統率する監察(カムチヤル)尚宮、その上は後宮女官長に相当する提調尚宮(チェジヨサングン)と副女官長である副提調尚宮である。
 提調尚宮が実質的な後宮の最高責任者となり、国王の母大妃はいうならば名目上の後宮責任者といえる。もちろん提調尚宮は有事の際は大妃の意向を伺うし、最終決定権は大妃にあるにせよ、大妃の意向を聞き実際に後宮の運営に当たるのは提調尚宮なのだ。
 平の尚宮でも、正五品の位を与えられる。側室以外の女官では後宮では最高位である。正五品といえば、朝廷の官僚と同等ではないか! 女ながらも表で活躍する男たちと同じだけの位階を得られる―というのはソナには信じられなく素晴らしいことに思える。
 ソナもよもや自分が尚宮になれるとまで大それた夢を思い描いていたわけではない。ただ、いつまでも最下級の水汲みというわけではなく、努力して認められれば、いっぱしの女官にはなれるものだと信じていただけに、落胆は大きい。
 現状では、恐らく自分は未来永劫、水汲みのままだ。血も涙もない尚宮や女官たちに顎でこき使われ、年老いて、あたら女の花の盛りを無駄に費やす。そして、後宮という花園の片隅で訪れてくれる蝶もなく、ひっそりと散るだけ。それもあまりに淋しすぎる。
 かといって、後宮という特別で閉鎖的な空間のため、年頃の男性との出逢いを期待しようにもできないのだ。元々、後宮という場所は国王ただ一人のためのものである。後宮に何千という美しい花が咲き誇っても、手折れるのは国王だけ。つまりは、後宮の女はすべて国王の所有物、女官が?王の女?と呼ばれる所以である。
 が、実際にそれぞれの部署で働く女官たちすべてが国王の前に出るわけでもなく、ましてや更にその下で働く水汲みのソナなぞ、既に後宮入りして半年になれども、遠目にも王を見たことは一度もない。
 かといって王の女たちがいる後宮に男性はそうそう訪れるはずもなく、自由に行き来するのは内官、つまり男性機能を人工的に失わせられた宦官だけだ。彼らは男性であっても男性ではない。だからこそ、自由に王の女たちがいる場所を闊歩できる。
 女官と内官の恋愛は基本はご法度だ。しかし、咲いて散る花に運命をたとえられる女官のこととて、普段は厳しい尚宮たちもよほどのことがない限り、内官と女官の恋愛は隠密裡に続いてる限りは大目に見ていた。
 今は老いて色恋沙汰には無縁になった尚宮たちもかつては同様に咲いて散るだけの我が運命を儚み、内官との恋に束の間の夢を見たこともあったからだ。後宮の女たちは皆、そうやって殆どがひっそりと咲いて散る。
 王の眼に止まり閨に呼ばれるのは、大勢の中のほんの一人か二人、砂漠でひと粒の砂金を見つけ出すほどに困難なものだ。更に閨に招かれても寵愛を確固たるものにし、懐妊して王の御子を生み奉るのは相当の果報者といえる。
 王の御子の母ともなれば、お腹さまとしての待遇を受け、正式な側室となれる。そうなれば紛れもない王族である。後宮入りした若い女官は誰しもが憧れて止まない究極の玉の輿物語であった。
「王さまなんて高望みはしないけど、せめて格好良い内官との出逢いくらいはあっても良さそうなものなのにね」
 ソナはこれもまた金尚宮に見つかれば大目玉を喰らうに違いない―小さな舌を出し、肩を竦めた。
 独りごちると、汲み上げたばかりの水の入った水瓶を頭に乗せる。頭には藁で編んだ輪っかが乗っており、その上に水瓶を安定させる。輪っかから細い紐が繋がっていて、それを口に銜える仕組みだ。
「よいしょっと」
 最初は慣れなかった水汲みも今では楽々こなせる。来たばかりの頃は水瓶を落として割っては、先輩女官から嫌みばかり言われたものだ。それも今となっては懐かしくさえある。日々、同じことの繰り返し、朝から晩まで働き通しで、ソナの十七歳の日々は過ぎていく。
「嫌になっちゃうわ、どこかにいないかしら、男前(イケメン)の内官」
 呟きつつ数歩あるいたときであった。よく前を見ていなかったせいで、誰かが向こうから急ぎ足で歩いてくるのに気付くのが遅れた。
「ああっ」
 叫んだときは既に遅かった。勢いよく相手に衝突したソナはよろめき、後方に倒れた。弾みで頭に乗せていた甕は当然ながら吹っ飛び、地面に落ちて砕けた。
「あっ、あ―」
 ソナは狼狽えて粉々に砕け散った甕に駆け寄る。
「どうしよう。今度は鞭打ちだけじゃ済まないわ」
 蒼褪め、慌てて甕の欠片を拾い集めようとしているソナに申し訳なさげに声がかけられた。
「済まぬ、私のせいで」
 だが、ソナの耳に相手の声は届いていない。夢中で欠片を拾うソナの手がそっと掴まれた。
「駄目だ、そんなことをしていたら、そなたが怪我をする」
 その声で漸くソナは声の主を見上げた。見上げるほどの長身は逆光になって輪郭は定かではない。
 見下ろされているのが癪で、ソナは立ち上がった。自分を窮地に陥れたヤツの顔をしかと見定めてやろうと相手の顔を見つめた刹那、ソナは息を呑んだ。
 五月の陽光を背負い、一人の男が佇んでいた。深緑の制服は紛れもなく内官のものだ。内官は男としての性的機能を失っているので、次第に中性化してくるものが多い。この男も背こそずば抜けて高いけれど、女性の出で立ちをしてもさぞかし似合うだろうと思わせる美貌だ。
 きらびやかなチマチョゴリを纏い、艶やかな髪を結い上げて光り輝く貴石をあしらう簪を挿せば、申潤福(シン・ユンボク)が描いた美人画から抜け出してきたような美女が出現するだろう。女のソナからすれば羨ましいというか悔しいというか、複雑な心境だけれども、素直にその美しさを認めずにはいられないほど、その男は美しかった。
―これだけ美人なのに、女に生まれられなかったのは不幸よね、だから、内官にしかなれないんだわ。
 果たして、この内官当人が女から?美人?と褒められて歓ぶかどうかは判らないけれど―。女に生まれれば、この妖しいほどの傾国の美貌で女嫌い、後宮嫌いで有名な国王の氷のような心も一瞬で蕩かせてしまうだろうのに。
 他人事ながら残念だと、ソナはぼんやりと内官の美貌を惚けたように見つめながら思った。