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相思花~王の涙~【前編】

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 ソナは変わってしまった自分自身に戸惑いつつも、ハンの逞しい胸に両手を添えて寄りかかった。その頬を彼の胸に寄せて告げる。
「私をいつか王妃にして下さいませ。殿下」
 ハンの手がソナの艶やかな髪を撫でる。
「もちろんだ。私は必ずや約束を守る」
「嬉しうございます」
 ソナは自分からハンの夜着の紐を解いてゆく。息を呑むハンを下から掬い上げるように見上げたソナの瞳は男を溺れさせる魔性の色香に満ちていた。ハンが恍惚としてその瞳を見つめる。彼はソナの瞳に軽く唇で触れ、彼女のたおやかな身体を柔らかく褥に押し倒した。
 
 蝉の声がかしましい。だが、時折、気まぐれに吹き過ぎてゆく風は水面を渡り、汀(みぎわ)に佇む二人の間を優しく通り過ぎていった。
 宮殿の庭園は広い。殊に南園と呼ばれる一角の池は巨大で、とても人工的に造られたものとは思えない。周囲には緑が多く、季節ごとの花々が丹精されているため、一年を通じて四季を問わず様々な眺めを愉しめる趣向になっている。
 しばらくそこからの景観を楽しんだ後、ソナはハンと共に池から宮殿へと戻る小道を辿り始めた。
 小道の周囲はひらけて見晴らしの良い場所もあれば、樹木が迫り濃い翳を落としているところもある。二人はいかにも愉しげに語らい、時々ソナがハンの耳許に形の良い唇を寄せて何事か囁き、ハンが声を上げて笑う。その姿はどこから見ても似合いの美しき一対であった。
 ふいに視界が一面の白に染まった。樹木が途切れ、周囲はさながら群れ咲く白百合の野原になった。所々、薄紅、橙の花が混じってはいるものの、その大半が純白の百合が咲き誇っている。圧倒されるほどの景観であった。
 ソナは小道の向こう側に人影を認めた。まんまと引っかかってくれたようである。それは次第に近づいてきて、ソナとハンの手前で止まった。朴貴人、崔淑儀、李淑媛、三人のハンの側室たちであった。
「これは殿下、このようなところでお眼にかかり、光栄に存じます」
 王の寵愛を失って久しい朴貴人ではあったが、やはりハンを見ると、年甲斐もなく頬を赤らめているところは女だ。小皺が寄った眼許には明らかな媚が滲んでいた。パク貴人の少し後方に控えた二人の側室もそれぞれ頭を垂れた。
 ハンの視線が彼女たちの上を緩慢に素通りし、すぐに興味を失ったように離れた。
「三人とも元気そうで何よりだ」
 いかにもおざなりの言葉を投げたが、王の声には何の感情もこもっていないのは明らかだ。
 李淑媛が悔しげに唇を噛みしめるのが判った。
 と、ハンが一転して弾んだ声音を発した。
「そう申せば、ソナ、そなたは百合の花が好きだと申しておったな」
「はい」
 ソナは艶やかに微笑み、傍らの王を見上げる。王とソナの視線が絡み、二人が互いにしか判らぬ親密な情の通い合いを見せるのを三人の側室たちはなすすべもなく眺めているしかない。
 側室たちの表情は一様に凍り付いている。李淑媛などは憤怒の表情を抑えるのに精一杯だ。
 不自然なほどの静寂が満たす中、蝉の啼き声だけが余計にその場のしじまを際立たせていた。誰も声を発する者はいない。
 意外にも、その沈黙を唐突に破ったのは王であった。
「そなたにここの花をすべて与えよう、今後、好きなときに好きなだけ摘むと良い」
「嬉しうございます、殿下」
 ソナはほんのわずかに紅を刷いた眦を下げ、恥ずかしげにハンを見上げる。今日の出で立ちは紫の衣装だ。上衣は淡い紫で、チマは濃紫。夏のこととて紗を使い、上衣には裾や袖に白百合が精緻に刺繍され、チマの裾にも同様に百合と戯れる蝶が縫い取られている。
 艶やかに編んだ黒髪を飾るのはチマチョゴリと合わせた淡い紫水晶(ラベンダーアメジスト)の簪だ。陶磁器のような白くなめらかな膚に品の良い薄紅色の唇はややふっくらとして清楚で可憐な美貌にそこだけわずかに扇情的な魅力を添えている。
 蒼の龍袍を纏った凛々しい王はそんな寵姫を満足げに眺め、頷いた。
「そなたの望むことは何でも叶えてやる。そなたを泣かせるものはすべて何であれ許さぬし、排除するとしよう」
 その一瞬、パク貴人の顔色が変わった。背後の二人もその表情が固まっている。
 王が魅力的な深い声音で問いかける。
「いかがしたかな、パク貴人、崔淑儀、李淑媛。予の糟糠の妻であるそなたらであれば、誰よりも予の心を理解してくれているものと信じている。どうか後宮の女たちが予の大切なシン尚宮を害するようなことがあれば、予の代わりにこの者を庇ってやって欲しい」
 パク貴人が頬を引きつらせながらも、強ばった笑みを浮かべた。
「もちろんでございますわ、殿下。私たちも久しく新しい側室が入らなかったゆえ、淋しく過ごしておりましたの。ねえ、崔淑儀?」
 促すように問いかけると、傍らからすかさず崔淑儀も引きつった笑い声を上げた。
「さようでございますわ、私も可愛い妹が増えたようで、とても頼もしく思っております」
 李淑媛だけが何も言わず、唇を噛みしめて小刻みに身体を震わせていた。
「それでは、これにて失礼する」
 行こうと、王は寄り添うソナに声をかける。三人にかける儀礼的で慇懃な声ではなく、親しい者にだけ向けるものであることは判った。
「はい」
 ソナは殊勝に頷き、三人の側室にも深々と頭を下げてから王に付いて歩き始めた。
 三人が愕然として立ち尽くしているのは見なくても知れている。背中に三つの視線が刃のように突き刺さるのをソナは感じていた。もし視線だけで人を殺せるとすれば、この時、間違いなくソナは死んでいただろう。それほど烈しい嫉妬と憎悪の混じったものだった。
 しばらく歩いたところで、ソナは背伸びしてハンに囁いた。
「殿下」
「ん? 何だ」
 ソナは瞳にありったけの想いを込めて見つめる。それだけで普段は厳しさを滲ませた王の瞳はやわらぎ、蕩ける。
「ありがとうございます。私のお願いをお聞き届け下さって」
 ハンが笑い声を上げた。
「そなたもなかなか強かな女だな。それに、賢い。このような方法で罰すれば、あの者どもも二度とそなたを害したりはすまい」
 ソナはそれには応えず、艶やかな微笑を浮かべるにとどめた。
「だが、そのようなそなたも悪くはない。ただやられて泣いているだけの女より、強かで聡明な女の方が王妃には向いているからな。そなたはまさしく中殿の器だ」
 ソナは初々しく頬を染めた。
「お褒めに与り、恐悦至極にございます」
 ハンが声を立てて笑った。この可憐な頬を染める少女のどこに怖ろしい野心が隠されているのか―。王でなくとも、誰も信じられないのも無理はなかった。 
 
 一方、三人の側室たちはその場に皆、縫い止められたように立ち尽くしていた。
 その中で最も早く我を取り戻したのはパク貴人で、流石に年の功というべきであろうか。
「したたかな女だわ」
 パク貴人は放心したように呟き、ゆるりと首を振った。彼女が先刻交わされたばかりの王とのやりとりに震え上がっているのは明らかだ。
「敵に回せば怖ろしい女よ。無邪気な小娘を装ってはいるけど、とんだあばずれだわ。私はもう降りるわ。どうせ歳だし、この先もあの女と寵愛をいかに競おうとも、得られる可能性はない」