相思花~王の涙~【前編】
大殿の寝所に伺候したソナはいつもの夜のように、ハンと小卓を囲む。今や王の寝所にに召されるのはソナ一人で、しかもほぼ毎夜である。ソナはまさに、国王の寵愛を独占していた。
ハンは愛妃と過ごす夜をとても心待ちにしているようで、行為そのものももちろんだけれど、床に入る前のこのひととき―酒を酌み交わし交わす他愛ない会話をも心から愉しんでいる風であった。
最初にソナがハンに酒を注ぎ、今度はハンが手ずから注いでくれる。だが、その夜、ソナは微笑んで首を振った。
「今宵は飲まぬのか?」
「はい」
頷くと、ハンが眉根を寄せた。
「どうした、何かあったのか?」
ソナが沈んでいるのを見抜いたようで、心配そうに訊いてくれる。ソナの流した涙はけして、すべてが偽りではなかった。
「では、何か話してくれ、いつもソナはその日の出来事をおもしろおかしく話して聞かせてくれる。私はそれを聞くのを何よりの一日の終わりの愉しみにしているのだ」
ソナは頭を下げた。
「申し訳ございません。殿下、その御意にもお従い致しかねます」
「何故だ? 本当に今宵はどうしたのだ」
ソナはハンから視線を逸らした。ハンが小卓を脇に押しやり、ソナに近づく。
「ソナは今夜は私をずっと避けている」
「避けてなどおりませぬ。一日ずっとお逢いしたいとここで殿下にお目に掛かるのを心待ちにしているのです。大好きな方のお顔を見るのを愉しみにしているこの身が何故、殿下を避けたりしましょうか」
ハンは溜息をついた。
「それでは、私の顔を見ろ」
ソナがおずおずとハンを見た。ハンはソナと視線を合わせて言う。
「正直に言え。何があった?」
ソナの黒曜石の瞳から雫がほろりと転がり落ちた。ハンの顔色がそれだけで変わった。
「どうした! 何故、泣く。何があったというのだ。気丈なそなたが泣くほど辛いことがあったのだな。申してみよ」
ソナは烈しくかぶりを振った。
「やはり、私の口からは到底申し上げられません」
ハンが焦れたように言った。
「どうして」
ソナは大粒の涙を零した。
「私が姉ともご尊敬申し上げるお三方のことを私自身の口から悪く言うことはできません」
ハンの顔色が動いた。
「そなたが姉と尊敬する三人、それはもしや、三人の側室たちのことか?」
ソナはかすかに頷いた。そして、よよと泣き崩れる。
「殿下、私からはこれ以上は申し上げられませぬ。どうかお三方には絶対に誰が話したかを告げずに、私付きのシム尚宮にお聞き下さいませ」
直ちに扉一つ隔てた廊下に控えるシム尚宮が呼ばれた。王もソナも夜着一枚きりの姿とて、シム尚宮は視線はずっと別方向に向けたままであったが、王から問われたことにはすべて淀みなく応えた。
事情を知った王から退出を許され、シム尚宮はまた宿直を務めるために寝所の外に出ていった。
ハンは大きな溜息をついた。
「何ゆえ、最初から打ち明けなかったのか?」
ソナは涙ながらに言った。
「三人のご側室方は殿下にとっては長年連れ添われた糟糠の妻、そのような大切なお方をこの私がどうして悪く言えるでしょう」
「許し難い所業ではあるが、それだけであの者らに罰を与えるわけにはゆかぬ」
と、ソナがハンの耳許に唇を寄せた。
しばらくその話を聞いていたハンがクスリと笑った。
「なるほど、そのような意趣返しであれば、さほど問題もなかろう」
ハンは小首を傾げ、ソナを痛ましげに見つめた。
「済まぬ。そなたには苦労を掛ける」
ソナは小さく首を振った。
「私が我慢いたせば良いだけですもの。たいしたことではありません」
ハンが呟いた。
「李淑媛が申したか、そなたが側室でもない者だと」
ソナは儚げな笑みを浮かべた。
「仕方ありません、それも真のことです」
ハンが独りごちた。
「ただ一人の妻と思うソナに隠し事はしたくない。実は、そなたを側室ではなく特別尚宮としたのは母上の意向なのだ」
それは初耳だった。
「大妃さまは私が側室となることにご反対なのですか?」
ハンが気まずげに頷く。
「両班の娘ではなく常民のそなたを王族と認めることはできぬと強く反対されてしまってな。私もかなりお願いしたのだが、どうでも母上が認めて下さらなかった」
ソナは内心、歯がみする想いだった。何が母上が反対なされたですって?
良い歳をした大の男が惚れた女を側室にするのでさえ、母親の顔色を窺わねばならぬとは。二十五歳の男が?母上、母上?と来るとは、とんだお笑いぐさではないか。
―あなたは国王、この国の王なのよ、いちいち大妃の意見に振り回されずに、自分の思うようになさい。
叫んでやりたいのを堪え、必死に笑みを作る。だが、現実はその辺りにあるものを手当たり次第に壊してしまいたいほど凶暴な気分になっていた。
それでも、ハンはまだ母親を庇い続ける。
「だが、母上もこれで大分譲歩して下さったのだぞ。最初はそなたを後宮にすることすら認められなかった。私がソナになら世継ぎを生ませることができるだろうと申し上げて、やっと認めて下されたのだ」
―私は子を産む機械ではないわっ。
ソナは心で叫び、ハンに極上の笑顔を向けた。
「良いのです、殿下はあの時、仰せになってではありませんか」
―二人でこの場所に来るまでには、色々なことがあるだろう。そなたにとっては辛いことの多い茨の道かもしれない。でも、私を信じて付いてきて欲しいんだ。繰り返して言う。私の妻はシン・ソナ。そなたしかおらぬ。
ソナは、初めて寝所に召された前日の話をした。二人して並んで眺めた正殿前からの壮大な夕景。黄金色に光り輝いていた宮殿の甍や数々の殿舎。
王と王妃しか許されぬ高みに立ち、すべてのものをはるかに見下ろしながら、ハンはソナに確かに言ったのだ。
「あの場所に立つまでは、恐らく私にとっては茨の道であろうと。でも、私は殿下のお気持ち一つを信じて、殿下に付いてゆくと自分で決めたのです。ゆえに、殿下も必ずお約束を守って下さるものと信じております」
「もちろんだ、私は約束を違えたりはしない。あの日の誓いはきっと守る」
ハンの真摯な瞳に射貫かれる。あの夕陽を見ながらの約束を思い出させたのは、ソナの計略の一つ。自分を必ずや王妃にすると約束した男の決意を促すため。
だが、今でもこの男、イ・ハンのこの真っすぐな瞳はこんなにも私の心を射貫き熱くする。彼に見つめられると、私の身体は熱を帯び、妖しくざわめく。それは何も彼によって飼い慣らされ女の歓びを教えられたこの身体が火照るだけではない。
私の心が、彼を、求めているのだ。
この国の頂点に立ちたい。私を見下した者たちを見返してやりたい。そんな復讐の念だけでなく、私は確かにこの男を求めている。
彼の傍らに並ぶことは、彼と同等の立場で生きていくことでもある。今のままでは、ソナはハンの側にいられても、隣に立ち肩を並べることはできない。
最初はそれだけで良かった。彼の側にいられるだけで良いと思った。なのに、私はいつから、こんな風に、ひたすら上へ上へと高みを目指すようになってしまったのだろう。
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ