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相思花~王の涙~【前編】

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 崔淑儀と李淑媛がちらと眼混ぜをし、まずは崔淑儀が位置に着いた。矢を投げると、わずかに逸れ、筒の外に落ちた。
「あら、少し腕が落ちたの? 崔淑儀」 
 パク貴人が派手すぎる紅を塗りたくった唇を歪めた。崔淑儀が苦笑めいた笑いを浮かべる。
「姉上さまのおっしゃるとおりのようですわ」
「それでは、李淑媛、おやりなさいな」
 パク貴人が促し、今度は李淑媛が位置に着いた。
「はい、お姉さま」
 フン、何がお姉さま? 心の中では王の寵愛をめぐって凌ぎを削り、隙あれば相手を蹴落とそうと画策している癖に、表面は?姉妹?を気取るつもりなのだ、この頭の悪い女狐どもは。
 ソナは虫酸が走りそうになるのを堪え、微笑みを湛えて李淑媛を見守る。と、異変はその時、起こった。淑媛の投げた矢が真っすぐソナめがけて飛んできたのだ。
 ソナは李淑媛より数歩離れた位置に立っていた。手許が狂ったのではなく、明らかに最初からソナを狙ってのことだった。矢は先を丸めてあるから生命の危険はないけれど、それでも勢いよく飛んできた矢にまともに当たれば、それなりの衝撃はあった。
「痛―」
 ソナのお付きの沈(シム)尚宮が顔色を変えた。
「尚宮さま(マーマニム)」
 シム尚宮はソナを敵視する者、機嫌を伺う者ばかりの後宮にあって、ただ一人信頼できる女官ともいえた。ハンが自ら選んで付けてくれた人である。歳は三十過ぎ、穏やかな人柄で、若い女官たちからも慕われている人望のある尚宮だ。
 淑媛の投げた矢はソナの下腹部に命中した。ソナは下腹を押さえ、その場に蹲った。
「李淑媛さま、畏れながら申し上げます。シン尚宮さまは国王殿下のご寵愛を受ける大切な御身、万が一、ご懐妊でもなさっていれば大変なことになります」
 シム尚宮が進み出て言うのに、李淑媛が柳眉をつり上げた。
「そなた、たかだか承恩尚宮に仕える分際で、この私に指図するのか!」
 そこにパク貴人が口を入れた。
「それにしても、おかしな話だな。主上さま(サンガンマーマ)にお仕えするのは何も新参のシン尚宮だけではない。我ら古参の側室も心を込めて殿下にお仕えしておるに、我らはまるで用なしであるかのような言い方は気に入らぬのう」
 と、崔淑儀が唾棄するように言い棄てた。
「仕方ございませんわ、姉上さま。現在のところ、殿下のご寵愛をお受けするのはシン尚宮だけですから。大方、この思い上がった尚宮は女主人の威勢を笠に着て、このようなことを言いたかったのでしょう」
 この辺りの連携は愚かな女たちといえども、見事なものだ。既に痛みも治まっていたソナは蹲ったまま馬鹿馬鹿しくなって聞いていた。
 李淑媛がまたも余計な茶々を入れる。
「あら、お姉さま方、シン尚宮は私たちと同格ではありませんことよ。この女はまだ特別尚宮に任ぜられたにすぎず、側室ですらないのです。自らを側室だと思う誇りさえ持たぬからこそ、先輩であり格上である私たちに挨拶にも来なかった。そのような一介の特別尚宮が御子を生んだとしても、何の意味もないことでは?」
「お言葉が過ぎまする」
 シン尚宮が叫ぶのと、李淑媛の平手がシン尚宮に飛ぶのはほぼ時を同じくしていた。
「控えろ! 国王さまの側室に対して、その口の聞きようは何だ。主が主なら、仕える者も仕える者だ」
「―っ」
 シン尚宮が唇を噛み黙り込んだ。
「シン尚宮、ご寵愛を楯にして我が物顔にふるまうのも良いが、ほどほどにせよ。さもなければ、その中、真に懐妊しても御子が無事産まれぬかもしれぬぞ?」
 パク貴人が意味深な笑みを投げかけ、二人の側室がクスリと笑った。
「それではこれにて失礼する」
 パク貴人が二人の側室を引き連れ、悠々と歩み去った。李淑媛が去り際、ソナを振り向きニヤリと勝ち誇ったような笑みを向けた。
 ソナはあまりの屈辱に身体中の血が沸き立つようだった。
 うだるような暑さと止まぬ蝉の声が余計に暑さを倍増するようだ。
「シン尚宮、済まぬ」
 ソナは立ち尽くすシン尚宮の頬にそっと触れた。かつて我が身も大殿尚宮であったキム尚宮に頬を思いきりはられ、腫れ上がったことがある。
 その場に残ったソナ付きの女官たちは数人人いる。この他にも殿舎に戻れば、それぞれの職務を果たす女官がまだたくさんいた。シン尚宮が直々に選考して選んだだけに、働き者で情に厚く、ソナを成り上がりなどと間違っても侮ったりしない忠義の者たちだ。いわば、後宮という伏魔殿にあって、この者たちだけがソナの頼りなのだ。
 その場に立ち尽くす女官たちは皆、うなだれ、中にはすすり泣く者もいた。
 ソナは殊更明るい声を上げた。この者たちは自分を主人として仕えてくれる、その信頼と忠義に応えるためにも、自分は彼女たちを主人として守らなければならない。それはソナが上に立つ者としての自覚に目覚めたときでもあった。
「さあ、皆、殿舎に戻りましょう。シン尚宮、一刻も早く打たれた箇所を冷やさなくては。できるだけ冷やして腫れないようにした方が後の痛みも軽くて済むのよ」
 シン尚宮が涙声で訴えた。
「私は悔しうございます。はばかりながら、あのお三方は既に殿下のお渡りもなくなって久しく、忘れ去られたようなもの。そんなお方が今を時めく尚宮さまにあのように傍若無人なふるまいをなさるとは」
 ソナは優しく言った。
「あなたが私のために自分のことのように怒ってくれるのは嬉しいわ、でも、このような外で殿下の側室の悪口を言うのはお止めなさい。誰も聞いていないようでも、どこでだれが聞き耳を立てているか知れないでしょう。その結果、私だけでなく、あなた自身まで更なる窮地に追い込まれることになる。下手をすれば、どんな怖ろしい謀に巻き込まれるかは判らないのよ」
 シン尚宮とソナの視線が交わり、シン尚宮がハッとした。
「申し訳ございませぬ! 私としたことが、深く考えもせず、浅慮でございました」
 ソナは暗に、お付きの者の軽挙が当人だけでなくソナにまで及ぶこともあり得るとシン尚宮を諭したのである。
 ソナは微笑んだ。
「謝る必要はない。あなたは私のために身を挺して李淑媛に抗議してくれた。この日のことはけして忘れないから」
 ソナは優しく言い、シン尚宮の頬に触れた。
「さあ、帰るわよ。シン尚宮、行きましょう」
 一同はソナを先頭に飛花閣に向けて歩き始めた。
 後に朝鮮王朝時代を通じて稀代の悪女と評されたシン・ソナではあるが、当時の記録を見ると、彼女に仕える女官たちの間での評判はけして悪いものではなかったようだ。むしろ、部下想いの情理を備えた女主人であり、けして感情で仕える者たちを叱ったりはしない理性的な女性であったことが窺える。
 蝉時雨が降り止まぬ中、ねっとりした大気が身体に纏いつくようで、吹き出した汗で薄物のチマチョゴリが膚にぺっとりと貼り付いている。それだけでも不快なのに、今し方のあの三人の女狐どもから受けた仕打ちを思い出すだけで、憤死しそうだ。
 さて、どうやって、このお礼をさせて貰おうか。
―貴人さま、淑儀さま、李淑媛、この返礼はたっぷりとさせて貰いますからね。
 ソナは悄然としたシン尚宮の肩を宥めるように叩きつつ、見えない敵がそこにいるかのように前方をキッと見据えた。

 その夜になった。