相思花~王の涙~【前編】
承恩とは王の寵愛を受けたという意味であり、要するに名前だけの名誉職とでもいえようか。ちなみに、特別尚宮は王の褥に侍っても、正式な側室として認められたわけではなく、従って王室の一員とは見なされない。
それまでの水汲み女のお仕着せから、纏うのは一転して煌びやかなチマチョゴリになる。
桃色のチョゴリには肩から見頃に大輪の牡丹が散りばめられ、上衣よりやや濃いめのチマはふんわりと花びらのようにひろがり、裾に複雑な模様が描かれていた。身分の高いことを示し、上衣の丈は長い。髪は国王の所有に帰したことを物語るかのように、成人の証として後頭部で髷を結い、煌めく貴石を散りばめた簪が惜しげもなく飾った。
その朝、後宮では新しい人事が発表された。尚宮・女官一同がすべて招集され、前に進み出た提調尚宮が声を張り上げた。
「この度、国王殿下の御意により、後宮で新しい特別尚宮に任じられた方がいる。今からご紹介するゆえ、皆、心してお迎えするように」
その声と共に現れたのはシン・ソナだった。美しく化粧し髪を結い上げたソナは、どこか幼く見えたこれまでとは別人の咲き誇る花の色香が溢れていた。両手を長い上衣の下で組み、ゆったりとした足取りで皆の前に立ち、軽く頭を下げる。
「この度、特別尚宮のお役目を頂いたシン・ソナだ。微力ながら、三人のご側室たち方をお助け参らせ、後宮のため、内命婦の規律を維持するために力を尽くそうと思う。よろしく頼みます」
昨日まで最下級の水汲みだとは信じられないような、見事な変貌ぶりだった。集められた皆がその堂々とした挙措、眼を瞠るばかりの洗練された美貌に圧倒された。
これまでソナに冷たく当たったキム尚宮、、大殿尚宮のソン尚宮と眼が合うと、ソナはこの上ない笑顔で微笑み、微笑みかけられた尚宮たちはそそくさと下を向いた。
その場には三人の側室たちも顔を揃えている。もちろん、ソナよりも少し離れた隣の上座に並んでいた。向かって左側が朴貴人(パクキイン)、真ん中が崔淑儀(チェスゥギ) 、右端が李淑媛(イスクウォン)である。ちなみに貴人は側室の中でも最高位の嬪に続く二番目の高い地位に相当する。淑儀は上から四番目、淑媛は一番下だ。
むろん、この三人の後宮たちが新入りを良い顔で迎えるはずがない。殊に三人ともに既に二十歳をとうに超えており、最古参のパク貴人は国王より五歳年上の三十歳になる。後の二人もそれぞれ二十代後半、半ばと既に女としての盛りを過ぎようとしていた。
しかも、肝心の良人である国王永宗はこの側室たちと関係を絶ってから数年になるといわれていた。そこに新たに出現したソナはまだ十七歳、花なら咲き初(そ)めたばかりの蕾、しかも国王自らが初めて自らの意思で寝所に召した女である。
苦虫を噛みつぶしたような顔、つんと澄まし返った顔、視線だけで射殺せるのではないかというほどソナをあからさまに敵意のこもった眼で見つめる顔、三者三様の表情をしているのが面白い。こんなときほど自らの誇りを保ち、上辺だけでも平静を取り繕って、にこやかな笑顔を浮かべていれば良いものを、愚かな女たちだ。
所詮、競争相手にもならない。ソナは一瞬の中に側室たちの本性を見事に見抜いていた。
提調尚宮が更に続けた。
「シン尚宮の住まいは飛花閣とし、お付きの女官はこの後、随意選ぶものとする。なお、本日付で大殿尚宮のソン尚宮は灯火房に移転、キム尚宮は永の暇を賜り、後宮を引くものとする」
突然の異動人事、居並ぶ女たちからどよめきが洩れた。続いてソナに日頃から冷たく当たっていた女官数名が同じく左遷されるとの発表があった。
「以上」
提調尚宮が読み上げたこの人事がそも誰の意によるものかは明らかだった。国王その人が命じなければ、このような人事はあり得ない。王の正妻である中殿が空席の今、内命婦を動かせる者は本来であれば、王の母たる大妃だけだ。そして、たとい王といえども、女の世界である後宮の人事には口は出せぬしきたりが昔から厳然と守られてきた。
だが、王にその戒めを破らせた者がいたのだ。それが王の寵愛を一身に集めるシン・ソナであることは誰の眼にも明白だった。何故なら、今日、左遷・罷免された女官たちはすべて水汲み時代のソナを冷遇した者たちばかりだったからである。
これ以降、後宮内では暗黙の掟ができた。
―シン承恩尚宮に睨まれては、この後宮では生きてはゆけぬ。
最早、誰も王の事実上の唯一の女となったソナに敵意を向ける者はいなかった。少なくとも、表向きだけは。
変わり身の早い者、利に聡い者たちは早々とソナの住まいとなった飛花閣にご機嫌伺いにやって来る有様となった。
正式に永宗の後宮として認められてからひと月を経た。その日は七月の朝から蒸し暑い一日となった。
その朝、側室の一人であるパク貴人からの誘いがあった。
―涼しい朝の中に矢投げなどして遊びませんか?
内容はそのようなものだ。高位の側室であるパク貴人からの誘いを無下に断ることもできず、ソナはやむなく受けた。当然ながら、覚悟していたこととはいえ、その場には他の二人の側室たちも居揃っていた。
「普通は新しく入った側室は早い中に古参の側室に挨拶に来るもの。されど、シン尚宮は一向に姿を見せぬゆえ、淋しうに思うていたぞ」
朴貴人が余裕を滲ませて嫌みったらしく言う。その傍らで取り巻きの二人、崔淑儀と李淑媛がすかさず相槌を打った。
「私どもも、可愛らしい妹が新たに増えると愉しみにしておったのだ、のう?」
崔淑儀が李淑媛に問いかけ、李淑媛がにこやかに頷いた。本人は笑顔のつもりだろうが、眼は笑っていないところが不気味である。
「それは真にご無礼を致しまして、申し訳ございませんでした。殿下にお仕えしてまだ日も浅く若輩者ゆえ、とんだ粗相を致しました。それでは、後日、お三方の許には改めてご挨拶にお伺いさせて頂きます」
もちろん、新入りの側室が先輩格に挨拶に行くのは知っていたし、今後も行くつもりはない。
淑やかに礼をすると、三人が意味ありげに顔を見合わせる。ああ、これだから、女はいやだ。寄ると触ると、徒党を組んで新入りをいびりにかかる。
ソナは早くもうんざりしてきた。叶うならば、さっさとこのふざけた茶番を終わらせたい。
「パク貴人さま、今日はお誘い頂きまして、ありがとうございます。私、是非、貴人さまのお見事なお手並みを拝見致しとうございます。よろしうございますか?」
下手に出てやると、パク貴人はすぐに機嫌を直した。単純な女だ。もちろん顔にも態度にも出さず、ソナは楚々とした風情で他の二人の側室たちにも笑顔を向けた。
「それではまず、私からやろう」
矢投げとは一定距離離れた場所から前方にある縦長の筒に矢を投げ入れる遊技(ゲーム)である。
最初にパク貴人が定位置に立ち、矢を投げた。矢は見事に弧を描いて筒に入った。
傍らで見物していた崔淑儀と李淑媛がキャッキャと子どものようにはしゃいで歓声を上げる。それらを冷めた眼で見やり、ソナは笑顔を浮かべた。
「お見事にございますわ、貴人さま。崔淑儀さま、李淑媛さま、お二方も是非、お手並みをご披露下さいませ」
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ