相思花~王の涙~【前編】
「そのように間近で顔を見ないで下さい。ここは寝所とはいえ、蝋燭の灯りで昼間のように明るいのですもの、醜い顔を殿下のお眼に触れたくはないのです」
王の寝所は貴重な蝋燭を何本も立てた燭台で煌々と明るく照らし出されている。王のみが使用する龍を浮き彫りにした黄金の蝋燭が赤々と燃えていた。
ハンが意外そうに眉をつり上げた。
「そなたが醜いというなら、世のすべてのおなごは皆、醜女ということになろうが。何ゆえ、そのようなことを?」
ソナは右頬を押さえ、涙の雫を宿した眼でハンを見つめた。
「ソン尚宮さまに打たれた跡が赤く醜く腫れ上がってしまっているのです。殿下のお眼にかけるのはお眼汚しかと」
「どれ、見せてごらん」
ハンが言うのに、ソナは厭々をした。
「好きな殿方に醜く腫れた顔をお見せしたくはありません。どうか、お許し下さいませ」
が、ハンは強引にソナの手を放し、顔を自分の方に向かせた。刹那、ハンの美麗な顔が強ばった。
「これは酷い。ここまで腫れ上がったのでは痛みもかなりあるのではないか?」
ソナは涙ぐんでうつむいた。
「たいしたことはありません。傷の痛みはほんの数日で治ります。でも、心が痛いのです。殿下、私はソン尚宮さまに憎まれているのでしょうか?」
「まさか、そんなことはあるまいが。私の大切なソナの可愛い顔をこのようにするとは許し難い。ソン尚宮には厳重な罰を与えねばならぬな」
ソナはますます哀しげな表情になった。
「そのようなことを殿下がなされば、私は余計に尚宮さまに憎まれてしまいます。どうかこれ以上、事を荒立てないようにお願い致します」
ハンは頷いた。
「安心せよ、そなたには二度と何人たりとも手出しはさせぬゆえ」
「殿下、人の縁とは不思議なものにございますね」
突然振った話題に、ハンが眼を見開く。
「人の縁とな」
「はい。天の不思議な力が働き、私をこうして殿下のおん許に導いて下された。私はそのように思うておりまする。まさか井戸端でお逢いしたときは、殿下が国王さまであらせられるとは想像もしませんでしたけれど」
クスリと笑みを零すと、ハンが気まずげに黙った。
「まあ、あのときは内官のなりをしていたからな」
「今ならもう教えて下さいますでしょう? 何故、内官を装っていたりしたのですか?」
「母上(オバママ)が何かと口うるさくてな。あの日も三人目の王妃を一日も早く迎えて孫の顔を見せてくれとせっつかれるのが嫌で、宮殿を抜け出すつもりだったのだ。抜け出すときは途中までは内官のなりをして、宮殿を出る直前に普通の衣服に改める」
ソナは冷やかすように言った。
「まっ、では、国王さまともあろうお方が宮殿を抜け出そうとなさっていたのですね」
「つまりは、そういうことだ。窮屈な宮殿暮らしばかりでは息が詰まって死にそうだ。ゆえに、たまにそうやってお忍びで町に出る。民の暮らしをこの眼で見ることも国の実情を知るために必要だからな」
と、最後に言い訳がましく付け加えるのも忘れない。
「大妃さまは私のことをどのようにお思いになるでしょうか? きっと嫁として認めては下さらないでしょうね」
ソナがしゅんとするのに、ハンは力づけるように言った。
「大丈夫だ。気の強い方だが、道理の判らぬ人ではない。そなたという女を見れば、きっと私が気に入ったのも理解して下される」
「ですが、私は両班ですらありません。きっと、大妃さまはお気に召さないのではありませんか」
「何を言う、王の寵愛を受ければ、その者は身分など問えない尊い身になる。そなたはれっきとした予の女だ。そなたの身分など関わりない」
ソナはそっと人差し指で目尻の涙を拭う。白い夜着姿のソナはまるで川辺に舞い降りた白鷺のようだ。涙をそっと拭うその仕種に男を知ったばかりの初々しい色香が溢れている。その姿をハンは眩しいものでも見るかのように見つめていた。
「今は殿下のお心だけが私の支えです。たとえ誰が認めてくれなくても、お慕いする方が私でも構わないのだと仰って下さるなら、私は憎まれても蔑まれても生きてゆけます」
「可愛いことを申す」
ハンが陶然とした瞳でソナを見つめる。
「ところで、ソナ。そなたは私を初めて見たときからずっと内官だと信じていたのか?」
ソナは眼を瞠った。
「はい、殿下のお情けを頂くまでは、そのように思うておりましたが」
何のことを言うのかと訝しげに見つめれば、ハンが憮然として言った。
「確かに内官の服を着てはいたが、やはり去勢した内官と本物の男は違って見えたのではないかと思ってな」
なるほど、そういうことかと、ソナは笑いを堪えるのに必死だ。
「失礼な言い様かもしれませんが、女人といっても通りそうなほどのお美しさに、やはり内官だからこそかと納得しておりました」
ハンがむくれた。
「失礼な。どこが女に見えるというのだ? 私はれきとした男だぞ、実際に床を共にするまで、そなたが私を内官だと心底信じていたとは思うてもおらなんだ! では、そなたはわずかなりとも疑ってはいなかったというのだな」
ソナは堪え切れず、クスリと笑った。
「申し訳ございません」
「なっ、何がおかしい。その態度はいかにも無礼ではないか」
本気で憤慨しているハンだったが、やがて二人の眼と眼が合い、どちらからともなく吹き出した。
「とんだ偽内官であったな」
ソナの可憐な面に妖艶な?女?の微笑が浮かび上がった。
「私は殿下が内官であろうとなかろうと、気にしてはいませんでした。イ・ハンさまという一人の殿方をお慕い申し上げましたゆえ。内官の妻として生きていくのもまた良いものかと」
ハンが手を伸ばし、そっとソナの右頬に触れる。赤く腫れた箇所を幾度も指先で撫でた。
「可哀想に」
やがて指先が唇に変わる。熱を孕んだ唇がソナの頬に押し当てられた。
「だが、やはり内官でなくて良かった。さもなければ、男としてそなたに女の歓びを与えてやることはできなかったからな」
「―はい」
既に短い蝋燭は燃え尽き、寝所の中は枕許の大きな蝋燭だけになっている。
ハンはソナの腰を抱き、膝裏を掬ったと思うと抱き上げた。そのまま大股で歩き、大切なものを扱うかのように慎重に絹の褥に降ろした。
「恥ずかしいので、灯りは消して下さい」
ソナが顔を背けると、ハンが艶やかな美声で笑う。
「ずっと今までは暗闇の中でそなたを抱いた。今宵は初めてそなたの身体を明るい灯の下で見られると期待していたのだがな」
「意地悪―」
涙を宿した瞳で嫋嫋と見上げれば、それだけで王は満面の笑みを浮かべた。
「初夜で花嫁に嫌われてしまっては困る。今宵は虐めるのはこれくらいにしておこう」
ハンが枕許の燭台に息を吹きかけ、閨の内は淡い闇に満たされた。
後は月明かりが差し込む室内で衣擦れの音とあえかな声が響くのみ―。
野望への階段
翌朝、ソナは王との初夜を滞りなく過ごしたとして、特別尚宮に任じるとの王命が下った。特別尚宮は承恩尚宮とも呼ばれる。尚宮との名称はついていても、後宮の各部署の責任者である仕事を持つ職歴(キヤリア)尚宮とは根本的に異なる。
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ