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相思花~王の涙~【前編】

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 李翰(イ・ハン)、どうしてその名に思い当たらなかったのか? その名が国王永宗のものであることを。
 王の女と、ソナは口の中で呟いた。ソナは単に国王の想い者であるというだけではない。いずれは?妻?となることを許された唯一の身なのだ。
 王の妻は即ち、王妃であり、この朝鮮国の母である。
 ソナは再度、鏡を覗き込んだ。鏡の中の女は臈長けた色香溢れる見知らぬ女に見えた。最早、世俗の欲も男も知らぬ無垢な少女のものではない。ソナは無意識の中に、右頬を押さえていた。腫れはますます酷くなっていっているようだ。
 彼女は薄紙を手にし、苦労して重ねた白粉をまた落とした。これで尚宮に打たれた跡はよりいっそう目立つ。これで良い。ソナは頷いた。
 何もわざわざ傷を隠すことはないのだ。ハンは優しい男だから、この傷を見せることで、余計にソナを不憫に思ってくれることだろう。ただ大人しく幸運が降ってくるのを待っているだけでは駄目なのかもしれない。
 今になって、ソナはそう思い始めていた。尚宮に打たれたこの傷だって、逆に利用してハンの心をますます掴む手段にしてやれば良い。ハンの心をこのまま掴み続け、寵愛を確かなものにしておけば、いずれ約束されているのはあの百官さえもはるか高みから見下ろすことのできる場所―、王妃の座だ。
 そのためには、ハンの心を掴み続けなければ。
―そなたの心が私から離れない限り、私の心もそなたから離れぬ。
 男の言葉など、どこまで当てにできるものか。世の中で不実な男に泣かされる女など、ごまんといる。ましてや、ハンはこの国の王なのだから、ソナよりも若くて美しい娘がまた新たに現れれば、その娘に心を移すかもしれないではないか。
―もしかしたら、私にもやっと運が向いてきたのかもしれない。
 だとしたら、その運を逃してなるものか。ハンの心を掴み続けることは、即ち、運を離さないことでもある。たとえ頼まれずとも、掴んだ運を離したりするものか。
 この瞬間、ソナの心に芽生えた小さな野心、それにソナ自身ですら気付いていなかった。朝鮮王朝の後宮で後世、?妖婦?と呼ばれることになった妃や後宮は少なくはない。まさかソナはこの時、我が身が後にその?妖婦?の項に名を書き連ねられるとは想像だにしていなかった。少なくとも、このときはまだ―。
  
 ほどなく後宮女官長である提調尚宮を初め、数人の女官が迎えにきて、ソナは大殿の王の寝所に向かった。重厚な扉の前には大勢の内官や尚宮、女官が詰めている。これらの者が夜通しここで耳をそばだててハンと自分の閨事を観察しているのかと思うと、ソナは心底嫌だった。
「殿下、シン・ソナが参っております」
 外側から内官が声をかけると、?通せ?と短い返事があった。外側から女官が両開きの扉を開く。白い夜着一枚きりのソナは長い髪を一つに編んで横に垂らしている。そのチョゴリの前結びになった紐の形を整え、提調尚宮が囁いた。
「既にご存じかもしれませんが、何事も殿下の御意に従われますように」
 国王自身が明らかにしたのだから、ソナが既に王と身体の関係を持っていることは後宮中にひろまっている。明日には宮殿中に広まることだろう。
 が、形式では、今宵が王の寝所に召される初めての夜ゆえ、初夜になるのだ。後宮で最も高い地位にいる女官長がソナに対して丁重な言葉遣いをしている。そのことが、今宵を境にソナの立場が彼女と逆転したことを何より示していた。
 王の寵愛、即ち承恩を受けた女はたとえ最下級の水汲みだとて尊い身体になり得るのだ。ソナは軽く頷き、寝所に脚を踏み入れた。
「それでは、ごゆるりとお過ごし下さいませ」
 女官長は深く頭を下げ、扉はソナの背後で外側から閉まった。
 寝所はまるで水底(みなそこ)のように静まり返っている。やたらと広い室の向こうに、豪奢な夜具がのべられていた。その前に小卓が置かれ、酒肴の用意がしてある。
 ハンは小卓の前に座り、ソナを見つめていた。
「ハン―」 
 言いかけて、慌てて口を押さえる。
「殿下」
 頭を下げ、所在なさげにうつむいていると、小さく含み笑う声がした。
「いきなりどうしたんだ? いつもは元気なソナが借りてきた猫のように大人しくしている」
 途端にソナの緊張が解れてゆく。大丈夫、いつものハンだ。ソナはそろそろとハンに近づき、小卓を挟んで向かい合う形で座った。
 酒器を捧げ持ち、ハンの手にした盃を満たす。ハンは一挙に盃を煽り、空の盃をソナに手渡した。ソナは押し頂く。その盃に今度はハンが並々と注いだ。
「これが我らの夫婦固めの盃だ」
「はい」
 ソナは頷き、横を向いて盃に口を付けた。
「そういえば、殿下がご酒を召し上がるのを見たのは初めてです」
 ひと口飲んで言うと、ハンが吹き出した。 ソナは膨れた。
「何ですか? これでも精一杯淑やかにしているつもりなのですが」
 ハンは笑いながら言った。
「いや、どうもな。そなたに改まって敬語なぞ使われると、どうも足の裏がむず痒くてならぬ」
「まっ、国王さまとあろうお方がそのような品のない物言いをなさってはなりません」
 ハンが笑顔で言った。
「二人だけのときは今までと同じで良いのだぞ」
「そういうわけには参りません。今まではイ・ハンさまが殿下だとは知らなかったのですから」
 ハンが溜息をついた。
「だが、何かそのような他人行儀な物言いをされると、私の方が別の女と話しているような気になる」
 ソナは微笑む。
「そうですか? きっとイ・ハンさまが国王殿下であられても中身はお変わりないように、私もこのような物言いをするようになっても、中身は変わらないと思います」
 ハンが笑った。
「確かにな、その考え様は間違いなくソナだ」
 ハンが小卓を脇に押しやり、両手をひろげる。ソナは少し恥じらってから、ハンの腕に身を任せた。
「夜着姿のそなたも初めて見る。まるで別人のように大人びているが―、これはこれで悪くないというより、この方が良いかな」
 ソナは頬を染めてうつむいた。夜着は薄物なので、殆ど身体の線が露わに透けてしまっている。手のひらで胸許を押さえて、恥ずかしげにハンを見上げた。
「そなたは相変わらずの恥ずかしがりだな。既に我らは何度も膚を合わせている。今更、恥じらうこともあるまいに」
 だが、ハンがこういう男擦れしない無垢さを好むことをソナは知り尽くしている。今夜も恥ずかしいのは本当だが、ハンの好みを判っていて敢えて恥じらっている部分もあった。
「夜着は薄いので、身体が見えてしまっています。こんなあられもない格好は恥ずかしい」
 消え入りそうな声で訴えると、ハンが含み笑う。
「そなたをこうして我が妃として抱けるとは夢のようだ」
「私も夢のように幸せです。お慕いするお方の側にずっといられるのですもの」
 と、ハンが真摯な表情を向けた。
「済まぬ」
 ソナは愛らしく小首を傾げた。
「何をお謝りになるのでしょうか?」
「一生に一度のことなのに、祝言もしてやれなかった」
 ソナは微笑んで首を振る。
「良いのです、私はこうして大好きな方の側にいられるだけで幸せ」
 呟いてから、ソナは哀しげに下を向いた。
「どうした?」
 ハンの問いに、ソナは小さな声で応える。