相思花~王の涙~【前編】
「詫びて済むくらいなら、最初から気を付けるべきであろう。そなたの上司たる尚宮は誰だ?」
唾を飛ばさんばかりに激高している尚宮には構わず、穏やかな声が割って入った。
「そなたは相変わらずだな」
優しい声が降ってきて、ソナは思わず顔を上げた。どこかで聞いたことのある声どころではない、ハンの声だ。もしや国王さまに付き従ってこの中にいるのだろうか。淡い期待感で視線をさまよわせた先に、ハンがいた。
だが、ソナは我が眼を疑った。深紅に龍が天駆ける金糸のきらびやかな縫い取りが施された―王衣である龍袍(りゆうほう)を纏えるのはこの国でも王のみだ。そして、ハンは今、その龍袍に身を包んでいた。
ソナの眼から涙が溢れた。何故、自分が泣いているのか判らない。最後まで嘘をつかれたことに対する怒りと哀しみなのか、尚宮に問答無用ばかりに頬を叩かれたことへの悔しさか。
もしかしたら、こんなときなのに、愛する男を見た、ただそれだけの安心感で流した涙なのかもしれない。
その刹那、ソナは悟ったのだ。自分はイ・ハンがたとえこの世の何ものであったとしても構いはしない。ただ、イ・ハンというただの一人の男を愛したに過ぎないのだ、と。
王衣を纏ったハンはやはりいつものように妖艶で美しい。更に王らしい自信と風格に溢れ、圧倒的な存在感を放っていた。ハンは真っすぐにソナの許まで歩いてくると、その傍らに立った。
「ソン尚宮、確かに先刻の出来事はこの者の落ち度ではあるが、何もそこまで叱責することはなかろう。ましてや、若い娘の顔を打つとは」
尚宮が色を失い、頭を下げた。
「恐れ入りましてございます。ですが、殿下―」
皆まで言わせず、ハンは断じた。
「この者が予の想い者であると知ってのことか?」
尚宮がヒュッと息を飲み込んだ。
「そんな、まさか」
そのきつい視線がソナを射るように向けられる。ハンの声が心もち厳しさを帯びた。
「この者とは既に何度も褥を共にしておる仲ゆえ、近々、大殿尚宮であるそなたにも紹介しようと思うていた矢先のことだ。皆の者、シン・ソナは予の女である。王の女に今後、一切の無礼は許さぬ、ソナに刃向かう者は王たる私に逆らうことと、さよう心得よ」
「―っ」
尚宮が悔しげに顔を歪め頭を下げた。
「承知致しました」
同様にハンを取り巻いていたお付きの内官や女官たちも声を揃え、次々に頭を深々と下げた。
ハンが耳許で囁いた。
「今宵、そなたを寝所に呼ぶ。そのつもりで」
国王は素早く囁くと、後は何もなかったかのように離れていった。ソナは頭を垂れ、ハンを見送った。
ソナはもうかれこれ一刻以上前から鏡を覗き込んでいた。何度白粉(おしろい)を刷いても、右頬の腫れは隠せない。それでも諦め切れずにその箇所だけ白粉を重ねてみた。が、やはり無駄な努力に終わった。
あれから自室に戻り、すぐに冷やしたのだが、腫れは予想外に酷かった。
あの鬼尚宮、あそこまで力任せに叩かなくても良いのに。内心で悪態をつきながらも根気よく冷やし続けた。
夕刻になって、ソナの身辺は俄に色めき立った。数人の綺麗な女官と少し年嵩の尚宮が来て、ソナはどこかの見知らぬ殿舎に連れてゆかれた。そこで湯浴みをさせられた。浴槽には贅沢にお湯がたっぷりと入り、薔薇の花びらまで漂っていた。
女官が数人がかりでソナの白い膚をこれでもかというほど磨き上げ、更に風呂上がりには薔薇の香りのする香油を身体中に塗り込まれた。
その後はこの室に案内され、また女官たちによって丹念に化粧を施された。今はその女官たちもいなくなり、やっとホッとしたところだ。彼女たちも気を遣ってはくれたようだが、やはり、右頬の腫れと赤みは隠せなかった。ゆえに、ソナがまた虚しい努力を続けているというわけである。
大体、寝所に入る寝支度は薄化粧と相場が決まっている。だから、余計に腫れが隠せないのだ。ソナは鏡を覗き込み、いつもより丁寧に紅を乗せた。女官が引いてくれた紅は少し控えめすぎる。
最初より濃いめの紅を乗せて鏡を覗き込んでみたけれど、どうも気に入らない。既に身体の関係はあるとはいえ、形式上は今夜が初夜なのだから、あまり派手やかな化粧は良くないだろうか。
―ハンは清楚な方が好みなのよね。
ソナはハンの女性の好みをよく知っている。なので、少し濃いめの紅を乗せた後で、軽く紙を噛んで色を抑えておいた。これで良しと、頬の腫れを隠すことは諦めて改めて周囲を見回す。
恐らく、今夜からここがソナの居室となる。今までとは広さはむろん、室内の設えに至るまで天と地ほどの違いがあった。女性らしい繊細かつ豪奢で華やかな飾り付けが施された広い室内はまるでこれまでソナが暮らしてきた世界とは別天地だ。
窓際から垂れた紗はほんのり薄紅で、美しい蝶の飾りが揺れている。その傍らには紫檀の卓が置かれ、これ一つで平民なら一年以上は家族が食べてゆけそうなほど値の張りそうな大壺が乗っていた。青磁の壺には複雑な唐草模様が刻まれており、大振りの薄紅の百合の花が束になって活け込まれていた。
もしかしたら、ハンが百合が好きだとソナが告げたのを憶えていてくれたのだろうか。室の上手には牡丹色の座椅子(ポリヨ)が置かれ、その前には文机が配置されている。ソナは立ち上がり、その座椅子に座ってみた。背後を振り返ると、繊細に描かれた蓮の花と一対の蝶。
豪華な絵柄だが、押さえた色目で描かれているため、品良く纏まっている。下手には更に小卓が置かれ、早咲きの紫陽花がこれも束になって活けられていた。
ここからの眺めは格別だ。今、この瞬間から、ソナは見上げる立場ではなく、この場所から見下ろす立場になれる。特にソナ自身が変わったわけではない、ただ王の女だとハンが宣言したことが、ソナの人生をこうまで劇的に変えたのだ。
―王の寵愛。
ただ女として一人の男に愛されて、何故、こうまで環境が激変するのか。腑に落ちないようでもあり、それが王という立場ならば当然のような気がした。
ただ一つ判っているのは、今の立場はかりそめのものであり、王の寵愛を失えば、立ちどころにソナはこの高みから転がり落ちてしまうということだけだった。
まさに、国王の想い人にふさわしい室だ。それらをゆっくりと眼で追いながら、ソナは何故、ハンが自分を昨日、正殿前に連れていったか、その理由を知った。
―そなたは王の女なのだ。
ハンはそう告げたかったに相違ない。
そして、彼が夕陽に包まれた壮麗な宮殿を眺めつつ、語った言葉の重みをもしっかりと理解した。
―二人でこの場所に来るまでには、色々なことがあるだろう。そなたにとっては辛いことの多い茨の道かもしれない。でも、私を信じて付いてきて欲しいんだ。繰り返して言う。私の妻はシン・ソナ。そなたしかおらぬ。
―この日、ここから見た眺めを忘れないでくれ、いつか私たちが二人でこの場所に立つその日まで。
あの瞬間、ハンは自らだけでなく、他ならぬソナ自身にもいずれソナを正式な妻にすることを宣言したのだ。
あのときはまだ、ハンが王その人であることを知らなかった。けれど、今は違う。
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ