相思花~王の涙~【前編】
格子枠の填った大きな丸窓が夜の世界を大きく切りとっている。窓の向こうにあるのは漆黒の夜空を飾る満月。障子越しに庭に生い茂る樹木の影が影絵芝居を見るかのように映っていた。
人眼についてはまずいので、灯火は使わない。二人はいつも薄闇の中で互いの膚を温め、温もりを確かめ合っていた。
風が出てきたのか、丸窓に映り込んだ樹の影がかすかに揺れた。
別れ際、ハンに耳許で囁かれた。
「明日の夕刻、正殿の前に来てくれ」
その言葉を訝しみながらも、言われたとおり、ソナは正殿の前に行った。夕刻とはいえ、まだ外は十分に明るい。こんな人眼につきやすい時間帯に堂々と内官と後宮の下働きが逢瀬を持っていて良いのかどうか。むろん見つかれば、ただでは済まないはずだ。
が、意に反して、国王が政務を執り、百官との御前会議に臨む正殿前には人影はなかった。まるで予め人払いしたかのような不自然さではあったが、とりあえずホッと胸を撫で下ろす。
ソナは周囲を窺うように見回し、自らの心を落ち着かせようと手のひらを胸に当て呼吸を整える。一体、ハンは何の目的でここに自分を呼んだのだろうか。
「ソナ、来てくれたんだね」
既に馴染みとなった深い声音に誘われて振り向く。内官のなりをしたハンがゆっくりと近づいてくる。ソナは狼狽えた。
「ハン、正殿のすぐ近くなのよ? あまりこんな場所で逢うのは良くないと思うわ」
見上げればすぐ先に偉容を誇る正殿が建っている。極彩色の威風堂々した佇まいは流石にこの国の政が日々、行われるにふさわしき場所のような気がする。
「構わないから、来て」
ハンはソナの言葉には頓着せず、ソナの手を引いて正殿に近づいた。その真正面で止まると、身体の向きを変え真正面を見渡すかのように佇む。ソナは戸惑っている中にハンに引き寄せられ、すぐ隣に居並ぶように立つことになった。
「ハン、どうしたっていうの? ここは国王殿下しか許されない場所なのに」
国王の即位式や、世子の冊封、また国婚(王の婚姻)、新たな王妃の冊立など国の要となるべき重要な儀式の折々に使われる場所である。そして、ここに立つのはこの朝鮮国の王のみ。議政府の高官たち以下の百官たちはすべてこの下の広場に居並ぶ。王や王妃はこの一段高い場所から臣下を見下ろすのだ。
ソナはもう泣きそうになっていた。内官と水汲み女が国王しか立てない場所に立つなんて、狂気の沙汰だ。
「ハン、もう止めましょう」
「良いから。今は誰も来ない。私たちだけの時間ゆえ、気にすることはない」
ハンは広場を見下ろすその場所にあろうことか、座り込んだ。仕方なくソナも彼の隣に座る。
折しも今、この瞬間、夕陽が宮殿の甍を照らし出していた。まるで大海の波のように果てなく続く壮麗な甍が蜜色の夕陽に真っすぐに照らし出され、黄金色(きんいろ)に染まっていた。それはまるで金色の波が果てなく続いているようにも見える。
そのあまりの神々しいまでの壮麗さ、美しさにソナは息を呑んだ。
「―!」
その反応に満足したかのように、ハンが美麗な顔をほろこばせる。
「見事なものだろう? そなたにずっと見せたかった。ここのこの時間の眺めは最高なんだ。幼いときからずっと見てきて、いつしか私の宝物となったんだ」
そのひと言に、ソナは違和感を憶えずにはいられなかった。ハンは幼いときから、ここからの眺めをよく見ていた? 彼が物心ついてまもなく内官見習いとして宮殿入りしたのなら、判らないでもないけれど―、それにしても、一内官見習いの子どもが国王しか許されない場所に繁く来られるものなのだろうか。
むろん、誰でもここを通ることはできるが、それはあくまでも素通りするのであって、長時間とどまる場所ではないのは確かだ。
「さりながら、そなたと出逢って、また宝物が一つ増えた」
物問いたげなソナの視線に、ハンは晴れやかな笑みを浮かべた。
「そなたこそが私の宝なんだよ、ソナ」
ハンは傍らのソナをぐっと自分の方に引き寄せ、肩を抱いた。
「いつか私はそなたを正式な妻に立てる。そのときは再び二人でこの場所に立つことになるだろう」
ハンに真正面から見つめられ、ソナは眼を見開いた。何故か、今は眼を逸らしてはいけないような気がした。
「二人でこの場所に来るまでには、色々なことがあるだろう。そなたにとっては辛いことの多い茨の道かもしれない。でも、私を信じて付いてきて欲しいんだ。繰り返して言う。私の妻はシン・ソナ。そなたしかおらぬ」
そのときのハンの真摯な表情はその後も長くソナの記憶にとどまった。思わず頷かずにはいられない生まれながらの風格、存在感がそのときの彼にはあった。
「はい」
ソナが素直に頷くとハンは微笑み、いつものように優しい笑みを浮かべた。
「この日、ここから見た眺めを忘れないでくれ、いつか私たちが二人でこの場所に立つその日まで」
ソナは頷き、もう一度、正面を見下ろした。宮殿内の殿舎がすべて黄金色に包まれて、さながら天界の王の住まいかと見紛うほど、気高い世界が眼下にひろがっていた。夕陽に抱き込まれた宮殿を眺めながら、ソナはその瞬間の美しき王宮の姿を胸に刻み込んだ。
しかし。ハンが王と王妃が立つべき場所に自分を連れてきたことに、何の意味があるのだろうか。幾ら考えてみても、ソナには理解できなかった。
宮殿の上にひろがる空がほんのりと茜色に染まっている。空は刻一刻と色と様を変え、やがて薄紅から菫色、群青色に染まる。熟した実のような太陽が今日最後の輝きを見せながら、地平の向こうに消えゆこうしていた。何の鳥か数羽が羽根をひろげて夕暮れの空を翔ていった。
真実は意外な形でソナの前に姿を現すことになった。ハンと二人で壮麗な夕陽を眺めた数日後のことである。
ソナはいつものように水瓶を頭に乗せて運んでいた。住まいとなっている殿舎近くまで戻ってきたところで、向こう側から賑やかな集団が近づいてくるのが眼に入った。次いで蒼色に金色で精緻な模様が描かれた天蓋が映じ、それが国王その人が宮殿内を移動する際に使用するものだと気付く。
慌てて通路の脇に寄った。その他の女官たちも急ぎ同じように道の脇へと避けている。ほどなく集団がソナの前に差し掛かった。豪奢な天蓋をさしかけているのは若い内官で、国王の周囲や後を何十人もの内官や尚宮、女官が取り巻いて静々と進んでいる。
いよいよ一団が近づいてきて、ソナはいっそう深く頭を垂れた。その拍子に不運にも頭に乗せた水瓶が揺れ動き、水が飛び散った。
女の鋭い悲鳴を上がったかと思うと次の瞬間には、右頬に灼けるような痛みを憶えていた。
「無礼者ッ、国王殿下のお通りであるぞ」
痛みに痺れる頬を押さえ、涙ぐんだ瞳で見上げれば、たまに見かける国王付きの大殿尚宮が物凄い形相で睨んでいた。
「上宮の尚宮に水をかけるとは不届き者めが」
四十歳ほどの尚宮はただでさえ細いつり眼を更につり上げ怒り心頭に発している様子だ。尚宮の制服であるチマが水にわずかに濡れていた。
ソナはあっと声を上げ、水瓶を下ろして土下座した。
「申し訳ございません! ご無礼の段、平にお許し下さいませ」
額を地面にこすりつけて懸命に詫びる。
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ