相思花~王の涙~【前編】
「何も蛙が飛び出したりはしないから。安心して良い」
その言葉に、ソナはまだ雫を宿した瞳を彼に向けて微笑んだ。刹那、ハンがソナを強く抱きしめた。
「可愛い、私のソナ。可愛くてこのまま食べてしまいたい。そなたのような女に出逢えて、私はこの国一の幸せな男だ。そなたの笑顔を守るためなら、私は何だってする。後宮でそなたを虐める者がいれば、私がその者を厳罰に処しても良い」
強く抱きしめられ、ソナは喘いだ。
「ハンってば。そんなに強くしたら苦しいし、息が出来ないじゃない。大丈夫よ、私をそこまで虐める人なんていないから」
だが、ハンにソナの言葉など届かないように、夢中でソナを仰のかせ口づけた。しばらく狂おしい口づけが続き、漸く口づけが解かれた時、ソナの瞳はより潤み、珊瑚色の唇は腫れ上がって濡れていた。
ハンはソナの髪を宝物のように撫でた。
「ソナはどんどん美しくなる。やがて、美しく花ひらくことだろう。だが、ソナを最初に花ひらかせるのはこの私だ。他の男には渡さない。実際、ソナ、そなたが先刻、私を嫌いになったと拒んだとしたら、激情に駆られた私はそなたをこの場で無理に奪ったかもしれないよ」
ソナは笑った。
「ハンは優しい人だから、そんなことはしないわ」
ハンが曖昧な笑みを浮かべた。
「内官とはいえ、私も男だから。人並みに嫉妬心も性欲もあるんだ。それは判らないさ」
ソナはその話には触れず、宝石箱の中にあったものを取り出した。手のひらに乗ったのは、淡い緑の玉石に同色の房がついた胸飾り(ノリゲ)だ。花は誇らしげに咲いた大輪の薔薇。
「葡萄石(プレナイト)ね」
歓声を上げ、ソナは瞳を煌めかせてハンを見た。
「この石がどうして、ぶどう石と呼ばれているかを知ってる?」
「いや、知らない。何か面白い謂われでもあるのかな」
ハンが興味を誘われたように問い返すのに、ソナは頷いた。
「ほら、石の色を見て、ぶどうのように透き通った美しい緑色をしているでしょう、だから、その名前で呼ばれているらしいわ」
「なるほど、流石は女の子だ、そういうことには詳しいな」
からかうように言われ、ソナは舌を突き出し肩を竦めた。
「これでも玉石には少しは詳しいのよ、私」
と、ハンが言った。
「おいおい、その仕種は止めてくれ。あまりに色っぽすぎて、流石の私も我慢がきかなくなりそうだ。まるで誘われているかのような気になる」
それで初めて舌を出したことを言われているのだと悟った。
「ああ、いけない、またやっちゃった。これでいつも尚宮さまに怒られるのよねえ」
更に舌を出しそうになり、慌てて引っこめる。
「ごめんなさい、はしたないわよね」
「妻になってからは好きなだけすると良い。そなたに夜毎、閨の中で誘惑されるのは愉しそうだ」
「まあ、ハンったら。戯れ言ばかり」
ソナはハンを軽く睨みながらも、その心遣いに感謝していた。このノリゲは十日前、漢陽の町でソナが見かけたものと同じだ。町の露店商が売っていたノリゲはハンのような若さまが買うには安い代物だろうが、その日暮らしの常民にとっては贅沢品である。
ソナは一度もハンに欲しいなんて言わなかったのに、ハンはちゃんとソナがノリゲを見ていたことを知っていた! 恐らく、イ・ハンという男は本当に気遣いのできる優しい人なのだろう。
今日はいきなり妻ではなく側女として迎えるなどと言われ、とても動揺してしまった、むろん、今でも、それはとても哀しい。騙されたということは抜きにしても、ソナが知る両親も伯父夫婦も夫婦は一夫一婦で、側室だとか妾だとか無縁の慎ましい世界に生きてきた。
両班ともなれば、側室の一人や二人くらいはいるのかもしれないが、まさか出逢ってすぐに熱い言葉で求婚してきた彼が自分を側室にするつもりだなんて想像もしなかった。
けれど、今はハンの言葉を信じてみようという気になっていた。何よりハンは本当にソナを騙すつもりはなかったのだろう。そう思ってしまう自分は甘すぎる、人が好すぎると笑われるのかもしれない。
それとも、これもハンに惚れた弱みというものなのか。
が、冷静に考えみても、やはり、名門カン氏一族ともなれば、のっけから平民の娘を正室に迎えるのは無理があるのだろう。いつか彼は両班の養女になれば大丈夫と言っていたけれど、仮に養女になったとしても、正室にはなれないしきたりなのだろうか。
その辺りのことは常民のソナには判らない。でも、この男なら、きっと約束は守ってくれる。いつか私を正室にしてくれるだろう。何よりハンの側にいたいから、その想いを貫くためには、ひとまずは彼を信じてみるしかない。
が、ソナには一抹の不安があった。彼は既に二度も結婚していると聞いた。二人の妻たちはやはりカン氏に釣り合う名門両班家の令嬢だったから、正室として迎えられたに違いない。それは判る。しかし、ハンが意外にあっさりと?側室?という言葉を口にしたところに疑問があった。
もしや、彼の屋敷にはまだ他に側室がいるのではないか? ふと浮かび上がった疑問が急速に膨らんでいった。それは確たる証拠があるわけでもないのに、何か不吉な予感を伴ってソナを苦しめた。
想いに惑っているソナの耳を、ハンの屈託ない声が打った。
「ソナ? どうかしたのか、顔色が悪い」
気遣わしげな声、愁いに満ちた美しい貌。私はこの人の側から離れたくない。
―私はハンを愛している。
この瞬間、ソナは我が身がイ・ハンに心を絡め取られてしまったことを知った。この想いはもうどこに棄てられはしない。
ハン、燈籠祭の夜、あなたは私に言ったわね。私の心が離れない限り、あなたの心が私から離れることはないって。でも、私はたとえ遠い将来、あなたの心が私から離れるときが来たとしても、あなたの側から潔く離れられるか自信がなくなったわ。
それは自身の胸に宿った烈しい恋情の自覚だった。そして、その燃え盛る恋心の中には嫉妬も混じっていた。
あなたが他の女を愛するのも微笑みかけるのもいや。
「ハン」
ソナはハンに自分から寄りかかり、その肩に身を預けた。
「お願い、私があなた一人のものであるのと同じように、これから先、どんなことがあっても、あなたも私一人を愛すると約束してくれる? そして、いつか私を正式なあなたの妻にしてちょうだい」
あなたは私のものであり、私はあなたのもの、それを忘れないで。
その瞬間のソナは自分がどれだけ蠱惑的であるかをまったく理解していなかった。ソナは艶を滲ませた瞳でハンを見上げ、艶やかに微笑んで呟いた。
「生涯、私だけと約束してくれるなら、私は覚悟を決めてあなたのものになる」
「―判った。約束しよう」
ハンの切れ長の双眸は男の色香を凄艶なまでに滲ませている。その瞳の奥底に蒼白い焔が点った。それは欲望という名の焔だった。
ハンの手によって、ソナはそっと床に横たえられる。覆い被さってくる男の身体をソナは両手を回して抱きしめた。
愕いたことに、ハンは内官ではなかった。
作品名:相思花~王の涙~【前編】 作家名:東 めぐみ