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相思花~王の涙~【前編】

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「そなたなら、どこに住みたい? やはり曰く付きのある殿舎は嫌だろうな。王の住まいから近く陽当たりも良い場所といえば、やはり中宮殿か。だが、いきなりは難しい。それとも、新しい殿舎をこの際、そなたのために建てるとか?」
 ソナは何の話をしているのか判らず、きょとんした顔で彼を見た。
「ハン、今夜のあなた、少しおかしいわ。何を言っているのか判らない」
 一人で盛り上がっているハンを尻目に、ソナは溜息をついた。
「ね、私は一日も早くここ(後宮)を出ていきたいのよ、ハン」
 そのひと言にハンが我に返った様子でソナを見た。
「それは何故?」
「後宮は怖いところよ、私は幽霊も怖いけど、生きている人間の方がよほど怖いわ。私は女官さまたちのように国王さまの眼に止まろうとかそんな野心も側室なりたいとか高望みもないけどね。彼女たちが必死で王さまの眼に止まろうとしたり、出世のために脚を引っ張り合っているのを見ると怖いなって思っちゃうの。結局、ここに暮らしていたお妃さまも王妃さまの嫉妬が原因で亡くなったようなものでしょう」
 ソナは小さく息をつく。
「でも、借金の残りをすべて返すにはまだ三年、長くて数年はかかるかもしれない。それまでは我慢してここにいなくちゃ」
 ハンが窺うようにソナを見た。
「ソナは私の妻になってくれるのではなかったの?」
 ソナは微笑んだ。
「もちろん、今もその気持ちは変わらないわよ。私みたいに何の取り柄もない平民の娘を望んで貰えるなんて、ありがたいと思ってる。けど、仮にあなたのご両親に認めて頂けたとしても、私があなたの奥さんになって後宮を出ていったら、伯父さんの借金を返せなくなるわ」
 ハンがきっぱりと言った。
「それは私が肩代わりするよ」
 ソナは真剣な面持ちでハンを見た。
「この前も言ったでしょ、それは止めて。あなたの申し出はとても嬉しい。でも、これは私自身の問題なの。結婚してからの問題は良人であるあなたと解決していくものでしょうけど、その前の問題は私が片付けなければならないわ」
 ハンが笑顔になった。
「判った。もう言わない。でも、もしソナが本当に困って助けが欲しくなったときは、いつでも言って。私ができるだけの援助をするからね」
 ハンはソナの艶やかな髪を撫でた。どうも彼はそれが癖になりつつあるらしい。ソナも好きな男に触れられるのは厭ではなく、むしろ嬉しいので、何も言わないで好きなようにさせている。
「ありがとう」
 ソナが笑うと、ハンの指が今度はソナの頬を辿り始めた。
「近い中にはソナを母にも逢わせたいと思っているんだ」
 初めて聞くハンの家族の話に、ソナは慌ててハンから身を離し姿勢を正す。ソナの膚に触れていたハンは残念そうに手を放した。
「ハンのお母さまに紹介して貰えるの?」
 ハンが幾度も頷いた。
「父の方はもう亡くなっているんだ。現在は私が家門を継いで当主となっている」
 ソナは意外なことを聞いた。
「長男の跡取りなのに、内官になったの―」
 疑問をそのまま口に乗せると、何故かハンの面に翳りが差した。
「それは」
 哀しげな表情に、ソナは慌てた。
「良いのよ。この前も言ったように、あなが話したくないことを無理に聞きたいとは思わないから」
 そこで思い切って話題を変えた。
「お母さまはどんな方?」
 ハンが思い出し笑いをする。
「さあ、我が母ながら、気の強い女性ではあるだろうな」
 ソナはいちばん気になっていたことを訊く。
「お母さまはもちろん、権門のご出身なのよね?」
「カン氏だよ」
 ソナは息を呑んだ。
「カン氏って、あの大妃さまや領議政さまと同じご一族なの!」
 ハンが少し淋しげに笑んだ。
「うん、まあ、そういうことになるな」
 ソナは萎れた花のようにうなだれた。
「カン氏といういえば、今や土鳥落とす勢いの名門中の名門だわ。しかも王さまのご生母、議政府の三丞承(チヨンスン)(大臣)の筆頭を占めているし、領相大監(ヨンサンテーガン)は府院君、最初の中殿さまのお父君、国舅(国王の舅)だったのよね」
 ソナは深い息を吐き出し、首を振った。
「それはますます難しいわね。たとえ傍系とはいっても、天下のカン氏に嫁ぐには、私では身分が低すぎるわ。側室ならともかく」
 ハンが身を乗り出した。
「ソナ、正直に言う。そなたをいきなり正室として迎えるには無理があるんだ。ゆえに、最初は側室として迎え、いずれは正室に直す。必ず正室にすると約束するよ」
 ソナは烈しい衝撃を受けた。唇が震える。
「ハンは私を妾にするつもりだったの、最初から?」
 妻、妻と甘い科白を囁きながら、このひとは私を端から正妻ではなく側妾として迎えるつもりだったというの―。涙が溢れ出し、白いすべらかな頬をつたった。
「酷いわ。私を騙して」
 ハンの声に狼狽が混じった。
「ごめん、やはり最初に言うべきだった。さりながら、話せば、そなたは私を拒むと思ったんだ。けして、そなたを泣かせるつもりはなかった。許してくれ、嘘をついたわけではない。必ず近い中にそなたを正室にするから」
 両手で顔を覆って泣くソナをハンが堪りかねたように抱きしめた。
「本当に悪かった。だが、私の今の立場では、そなたを正室としていきなり迎えることはできない。そなたに息子が生まれたら、そのときは堂々と正室の座に座れるだろう」
「あなたは内官なのに、子どもは望めないわ。息子なんて生まれないのに?」 
 すすり泣くソナの背中に回ったハンの腕に力がこもった。
「そんな先のことを今から心配しても仕方ない」
 ソナは両手を突っ張って彼の胸を押しやった。ハンが哀しげに手を放した。
「それとも、ソナは私を嫌いになった? 嘘をつく不実な男だと信じられない?」
 ソナは恨めしげに彼を見た。
「ハンは狡いのね。私がここまで来て、あなたを嫌いになれないと知っていて、そんな残酷なことを言うんだわ」
 ハンは溜息をつき、首を振った。
「いや、そんなことはないよ。結果としてソナに嘘をついたことは確かだし、そなたがこれで私に愛想を尽かしたとしても仕方ないと思っている」
 ソナはまだしゃくり上げながらハンに縋り付いた。
「本当にいつか正室にしてくれる? いつまでも側室はいやよ」
 ハンはしっかりと頷いた。
「むろんだ。私は今夜のそなたの涙を忘れない。必ずソナを私の妻に、正式な妻に立てる」
 ハンはソナが泣き止むまでずっとそのまま抱きしめていてくれた。やがて、軽い口づけを交わし、ハンは最後にソナの目尻に堪った涙を唇で吸い取った。
 頬に朱を散らしたソナをハンが慈愛に満ちた眼で見つめる。見つめられてますます頬が熱くなるのはいつものことだ。
「約束の印にこれを」
 突如として差し出されたのは小さな宝石箱だった。百合の花につがいの蝶が螺鈿細工で蓋に施されている。
「素敵」
 やはり年頃の少女である、涙も乾かないのに眼をきらきらさせて覗き込むソナをハンは愛しげに見つめた。
「贈り物はこの中にある」
 ソナは眼をまたたかせた。
「この箱ではないの?」
 ハンが黙って頷き、ソナはびっくり箱を開けるように恐る恐る宝石箱を開ける。
 ハンがおっかなびっくりの様子のソナに笑った。