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相思花~王の涙~【前編】

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 当時、女官が起居していた殿舎は現在、空いたままになって久しい。
 また他の空いた殿舎では数代以上前に王妃の嫉妬で鞭打たれ流産した側室の亡霊が出るという話もある。それらがすべて真実だとは思わないが、やはり、真夜中に一人でそういう不穏な噂のあるいわくつきの殿舎の前を通るのは気持ちの良いものではなかった。
 とはいえ、ソナの恋人もまた内官であるわけだし、昼間から大っぴらに逢い引きを重ねることもできない。また、十日前のように頻繁に外出許可を得られるわけでもないのだ。
 となると、必然的に夜更けにこっそりと忍び逢うということになってしまう。宮殿内は見回りの兵が定期的に巡回する。夜には内官も見回るため、そういった者たちに逢瀬を見咎められては身の破滅になる。
―それにしても、気味が悪いわ。
 ホーホーとミミズクの啼き声が聞こえてくるのも何か不気味な夜の雰囲気をいや増している。
 とある殿舎の前まで来た時、月明かりに長い影が照らし出された。そのひとは銀色の月光を浴びている。横顔はこの世の人とは思えないほど神々しい気高さに満ちており、さながら月読の精が人の形を取って現れたのかと思うほど美しい。
 今宵は宮殿内であることをはばかってか、内官の制服を纏っている。どんな格好をしても、彼の気品を損なうことはいささかもなく、むしろ何を着ても似合うというのは女のソナから見れば羨ましい限りだ。
「―ハン!」
 ソナは愛しい男の姿を認めるなり、ホッとして叫んだ。ハンが振り向き、満面の笑みを浮かべる。ソナはそのまま一直線に走り、恋人の腕の中に飛び込んだ。抱きしめられると、ソナの大好きな薄荷の香りが彼の身体から漂ってくる。
「誰にも見つからなかった?」
 ハンに優しく顔を覗き込まれ、ソナは頷く。
「大丈夫よ、こういうときは一人部屋で良かったとつくづく思うわ」
 揚々と応えたソナの頬にハンは優しげな笑みを浮かべて、ほんの少しだけ触れる。その手は呆気ないほど素早く離れ、彼の温もりにもっと触れていたいと思う。そこまで考えて、ソナは頬を上気させた。
 私ってば、何をはしたないことを考えているのかしら。
 ハンに気付かれたら、嫌われてしまうに違いない。男女のことにはまるで疎いソナだが、恋人が内官であるという事実も彼女に警戒心を抱かせない理由でもあった。彼が内官であることはソナの恋にとって何の障害にもならない。
 内官と結婚した女たちがどのような夫婦の営みを送るのかは知らないけれど、それはすべてハンに任せておけば良いと特に気にしたことはない。とにかく今はハンにひとめでも逢いたい、逢えば少しでも長く彼の傍に居たい、その気持ちばかりが先に立つ。
 ソナは小首を傾げ、ハンを見上げた。
「でも、ハン。ここはいわくのある場所なのでしょ、どうして、こんなところを選んだの?」
 ソナたちから少し離れた場所には殿舎が見える。昔はそれなりに壮麗であったのだろうし、使われなくなった今も毎日、当番の女官たちが掃除をしているはずだ。ゆえに薄汚れているといういわけではないのに、やはり人の気配がない建物というのはうらぶれた重苦しい雰囲気に包まれるのだろう。
 ハンが淡く微笑った。
「こういう場所の方がかえって人に見つかりにくいだろう?」
 確かに彼の意見にも一理はある。幽霊が出るという場所に深夜、好んで来る物好きはいない。
「でも、やっぱり、私、怖い」
 ハンに思わず縋りつくと、ハンは笑いながらソナを腕に引き寄せた。
「そなたから身を寄り寄せてきてくれるとは、こういう効果もあるということだな」
 ソナはムッと頬を膨らませた。
「まっ、なに、それ」
 このまま彼に余裕たっぷりに笑われるのも癪なので、慌てて彼から離れた。
 ハンはまだ小さく笑っている。懸命に笑いを堪えている様子なのが憎らしくてあらぬ方を向いていると、声をかけられた。
「こっちに来てごらん」
 ハンが歩いていく方についていったソナは声を上げた。
「まあ、可愛い。こんなところに桜草が咲いているのね?」
 殿舎の前の一角、かつては庭だったのであろう片隅に数本の薄紅色と白色の花がひっそりと身を寄せ合っていた。ハンが自分の手柄のように得意げに言う。
「私がここで見つけたのが春先かな。最初は一輪だけだったのに、たまに来て水をやったりしていたら、これだけの花が咲いた」
 ハンは嬉しげに桜草を見ている。
「不思議だよ、きっとこの桜草の種はずっと土の中で眠っていたんだろうのに、何故、今になって芽吹いたのだろう」
 ソナは微笑んだ。
「きっと、この殿舎にずっと前に暮らしていたというお妃さまが植えたのかもしれないわね。お妃さまの想いが土の中でずっと大切に育まれて気の遠くなるような年月を経て地上に芽吹いたのではないかしら」
 ハンがソナを見た。
「お妃さまの想い?」
 ソナはにこやかに笑んだ。
「ハン、ここの殿舎にかつて住んでいたお妃さまは確か、中殿さまのお怒りを買って鞭打たれ、流産したと聞いているわ。私たちが窺い知れないほど昔のことだけれど、きっと哀しみの中でお亡くなりになっていったんでしょうね。でも、哀しみは希望の源でもある。お妃さまの哀しみは長い間に浄化されて、希望の種となって花開いた―、そう考えるのは生きている者のあまりに都合の良い考え方なのかな」
 ハンが感に堪えたように言った。
「いや、私はむしろ、そなたの言葉どおりであったならと願うよ。ソナ、私はよく思うんだ、この王朝が始まって久しいが、連綿と続いてきた歴史の末端に自分自身も名を連ねているのだと思うと、何かとても厳粛な気持ちになる。歴史というものは大きな一つの河だよ、その河は時に激流となりすべてのものを飲み込む荒々しい怪物となる。王朝の歴史も限りない犠牲者の血と涙で作られたものであることを忘れてはならない。多くの生命が礎となって作られたこの国を守らなければならば。民のためにも良き国を作りたいんだ」
 ソナは大きな黒い瞳を丸くした。
「内官は政治には携われないのでは?」
 ハンがハッとした表情になった。
「そう―だな。ソナの言うとおりだ。たかが一介の内官の身で政を語るのはおかしいな」
 ソナは首を振った。
「ごめんなさい。私の言い方が悪かったわ。そんな意味で言ったのではないのよ」
 ハンが気まずい沈黙を破るように言った。
「とにかく中へ入ろう。誰かに見咎められたら大変だ」
 ソナも異論はないので、素直に彼に従った。庭から続く短い階を上がり、両開きの戸を開ける。思ったとおり殿舎の内は掃除も行き届き、塵一つない。が、やはり外見同様、生活感がまるでないガランとした室内は廃墟という印象が強かった。
「今の後宮は空いている殿舎が多いわねえ」
 ソナは興味深げに室内を見回しながら言うともなしに言う。
 現国王永宗は二十五歳、亡くなった二人の王妃同様、政略結婚で入内した三人の妃たちがいるものの、彼女たちの許に国王が通わなくなって久しい。そのため、後宮内の殿舎は空いてる場所が多く、淋しいものだ。
 ハンがふいに眼を煌めかせた。