鏡の中
その日の広瀬は、仕事で外出した出先から直帰したため、普段よりも早く帰宅することができた。
せっかく早く帰宅できたのだからと、広瀬はジムに行くことにした。
広瀬はいつものトレーニングメニューをこなし、大浴場に入った。人気の無い大浴場はいつもとは違う雰囲気で、サウナもジェットバスも、全てを独り占めしているようで、気分が良かった。いつも以上に長湯してしまった広瀬が大浴場から上がったときには、ジムがクローズされる夜10時に迫っていた。
広瀬は、もう誰もいなくなったメイクアップルームで、髪を乾かした。およそ髪が乾いたので、ドライヤーのスイッチを切って、鏡で自分の髪を確認する。
すると、自分の顔の横に何か黒っぽいものが現れて、すぐに消えた。
それは、何者かの顔のようだった。前回ここで見たときよりも、だいぶ大きく見えた。
広瀬は周囲を見回した。クローズ時間に近いメイクアップルームには、自分以外には誰もいない。
不審に思った広瀬は、鏡に顔を近づけてみた。
すると、自分の顔の後ろから、自分の顔がちらりと現れて、すぐに自分の顔の後ろに隠れた。
先日から鏡に見えていた不審な影から想像すると、合わせ鏡の中の自分の映像の一つが、自分の陰に隠れながら、少しずつ自分に近づいて来ている。広瀬の脳裏に、そんな突拍子もないことを想起させるに十分な状況だった。
広瀬は自分の想像を否定しながら、幻覚でも見たのかと自分の両目を何度もこすった。
改めてしっかりと目を開いて鏡に映った自分の顔を見つめる。すると、鏡に映った自分の顔が一瞬にやりと笑った。
「!!」
驚いた広瀬は思った。
「これは鏡なんかじゃなくて、向こう側に別の部屋があって、この部屋と向こう側の部屋との間の窓なんじゃないか。そして、向こう側の部屋にいる誰かが、自分をからかっているんじゃないのか。」
広瀬はそれを確かめようと、鏡に向かって腕を伸ばした。
鏡にぶつかるはずの腕は、するりと鏡の中に入り込んで行った。同時に、鏡に接した自分の腕から、別の腕がにょっきりと現れた。
「やっぱり、向こう側の部屋にいる誰かが俺をからかっているんだ!」
広瀬がそう思ったとたん、鏡から生えた腕が広瀬の首に巻きついた。そのまま人間離れした力で、広瀬を引っ張る。
突然の事態にあっけにとられた広瀬は、抵抗する間もなく、鏡の中に引きずり込まれて行く。あっと言う間に広瀬の上半身が鏡の中に消え、やがて、ばたつかせていた両足も鏡の中に引きこまれ、消えていった。
作品名:鏡の中 作家名:sirius2014