鏡の中
広瀬誠は、40歳台後半のサラリーマンだった。
40歳になった頃、勤め先の毎年の健康診断でメタボを指摘されたが、長年の生活習慣を変えることができず、自分の弛み始めた体を放置していた。しかし、階段の上り下りがきつく感じるようになった広瀬は、さすがに運動不足を痛感するようになり、今から2ヶ月前に一念発起して、自宅から歩いて10分ほどの場所にあるスポーツクラブに入会した。
広瀬はそれ以来、ジムかよいを新たな生活習慣として、毎週2回程度、ジムに通っている。
ジムではいつも、マシンジムのいくつかのマシンで体の各部位を鍛え、最後にランニングマシンで、時速7~8キロ程度でゆっくりと1時間弱走る。
そして、トレーニングが終わった後は、ジム付属の大浴場でゆっくりと汗を洗い流す。
おかげで2ヶ月前と比べると、多少は体が引き締まり、体脂肪率も減少傾向にあるようだ。
土曜日の午後。スポーツクラブのマシンジムは、初老の男女で賑わっていた。
中には、体を鍛えるよりも知り合いとの会話を楽しみに来ていると思われる人もいる。しかし、広瀬は今日も黙々とマシンジムで汗を流しながら、自分の体を鍛えていた。
広瀬は、ラットプルダウンというマシンと取り組んでいた。このマシンは、ウェイトをかけた頭上の金属製のバーを両手で首の後ろに引き下ろすことにより、主に広背筋を鍛えるマシンだった。
後ろを通りかかったジムのトレーナーの若い女性が、唸り声を上げながらバーを引き下ろしている広瀬に声を掛けた。
「広瀬さん、バランスが崩れてます。また左側に力が偏ってますよ。」
女性トレーナーの声に、広瀬は腕を止めてトレーナーを振り返りながら愛想よく応える。
「ああ、左利きなんで、どうしても左腕に力が偏っちゃうんだよね。気を付けるよ。」
元々気さくな人柄なのか、あるいは若い女性から声を掛けられて、うれしいだけかも知れない。
広瀬はタオルで顔の汗を拭うと、右の眉をタオルでこすった。右眉の目尻に近い部分だけ、眉毛が縦に切れているのは、子供の頃に怪我をした名残だろう。
作品名:鏡の中 作家名:sirius2014