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ゆきの谷

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 源はなおも早口な銀爾の口調と、電気を通しても伝わる異様な緊張感に混乱し、沈黙していた。
「オマエ、烏丸家の家紋って知ってるか?! 母さんの着物に付いていた左二つ巴の家紋だ。オタマジャクシのような二つのシンボルが互いに向き合うように配置されている図案の…。栃木や群馬など北関東に多いとされている。
 巴の由来は、弓道具や渦巻きなど諸説あるが、二つ巴は何にせよ『対』を意味している。その図案をながめているうちに『もしや』と思い立ち、途中で抜け出して水上へ跳んで帰った。そしてすぐに新治へ直行し、寝たきりになっていた爺さんを問い詰めたんだ。
 菊之助爺さん、当初は要領を得ない応答に終始したが、思ったほどぼけてもいなかった。そして、はっきりと絞り出すように語ってくれた…」
 銀爾は荒げた呼吸を整えるために、一旦そこで話を切った。
「…爺さんが? 何て言ったんだよ」
 源はめり込むほど耳に強く押し付けていた受話器を持つ手に、さらに力を込めた。
「爺さんは言った。『オマエがそこまで察しているのなら、もう本当のことを話してもよかろう。衣久さんが産んだ子は、──双児だったんだ!』と…」
「? …双児…」
 源は絶句して右手で左胸を押さえ、呆然と外の夕陽に視線を放り投げた。
「そう、双児だった。梓織が消えた直後にタライまわしのように沼田に出されたのも、一年ぶりに会った梓織が他人のように思えたのも、これですべて氷解した。一人は『梓織』、もう一人は…、『あずさ』という名だそうだ」
 大脳に雷鳴が轟いた。そして胸に当てた右手に力を込め、源は全身を震わせた。
「爺さんは惣平が交わした『約束』のことも覚えていた。そう、事件のもう一つの約束は惣平と加藤弥太郎氏の密約だった。それは惣平一家を匿い、生活の糧として田畑まで貸す代わりに、一人息子しか授からなかった加藤家に、双児のうちの一人を引き渡すというものだった。
 健康な夫婦なら子は五人、六人、七人が当たり前の時代だ。名家のエリート陸軍将校として、一人しか子に恵まれなかったことを負い目に感じていたことは容易に察しがつく。しかも一粒種が男子となれば、いつ戦地に赴き命を落とすかわからんしな。
 『双児が一緒では目立ち過ぎ、すぐに衣久の家族に見つかってしまうぞ』という、娘欲しさに弥太郎氏がけしかけたものだったらしい。少なくとも菊之助爺さんはそう勘ぐっていた…」
 受話器を握る手はガタガタと震え、狼狽の極致に達した源は、「ああ」とかすれたうめき声を上げるのが精一杯だった。なおも銀爾の鬼気迫る告白は続いた。
「水上へ移り住んだ当初、梓織は家族の一員としてオレたちと一緒だったが、『あずさ』は弥太郎氏が大陸送りとなり消息を絶ったため『約束』の履行が困難となったから、やむなく新治へあずけられた。
 水上も新治も小さな集落だ、双児の女児の存在が知れたら、確かに集落中の噂になっただろう。だから弥太郎の警告どおりに、二人を分散することにしたんだ。そして父が死に、家にまで憲兵が来るようになり、梓織が拉致されるのではないかと危機感を抱いた母は、野暮用で水上の家に立ち寄った爺さんに、『新治で梓織も匿ってもらえまいか』と相談した。しかし爺さんは、冷然と言った。
 『預かるのは構わんが、今さら双児を一緒にはせん方がいい。やはり一人は加藤家に奉公に出そう。元々それが惣平と弥太郎の《約束》だったんだからな』と…。
 母も泣く泣く承諾した。双子の一方を残しもう一方を沼田に出すことになった新治の爺さんと婆さんは、すでに本当の孫のように可愛がっていたあずさの方を新治に残し、梓織をそのまま加藤家に出すことにした。だから新治にタネイモを届けたときにオレが会った相手は、梓織ではなくあずさだったんだ。どうりで別人に思えたはずだ。あずさにとってオレは初対面の男だったわけだから、言葉が少なかったのもうなづける。
 こうして梓織は加藤家にもらわれて行ったが、残ったあずさも『看護婦として御国のために、戦場で苦闘する兵士のために働きたいから…』と言い残し、ほどなく勤めていた新治の診療所を辞めて家を出たそうだ。豆腐屋のヨネ婆さんの話もでまかせや勘違いではなかった。双子のあずさを梓織と思い込んでいただけだったんだ。
 爺さんによると、あずさは第一五連隊司令部付きだった軍医を師事して渋川に向かったらしい。その後は、従軍看護婦となって外地へ渡ったようだが消息は不明のままだ。
 爺さんと母さんは周囲にはむろんのこと、梓織も含めた家族にまで秘密を押し通した。梓織に双児の姉妹が居ることをだ。不倫、誘拐、産みの親の自殺、二人を引き離す《約束》と、事件があまりにも過酷で複雑に過ぎたからな。
 菱刈家でも、実の娘が妻子持ちの男と許されぬ情事の末に産んだ子のことは隠したかったはずだ。だから双児の姉妹を、二つ巴を略して『ともえ』という隠語で呼んでいたと思われる。
 ──ということは、そこに居る山元さんも、父と衣久さんの子が双児だったことはおそらく知らないはずだ。…おい、…源、聞いているのか…」
 ビルマの渓谷で亡くなったあの美しい女性が、梓織と双児の姉だったことを知らされた源は、受話器をにぎったままソファに倒れ込み、そのまま突っ伏した。
 まばゆいほどの雪のような「白」をまとい、谷底に散った「あずさ」のあの光景。まだ名前も知らず、思わず「姉ちゃん」と叫んだことを思い出し、全身が逆毛立つほどの不思議な運命を感じた。そしてその運命は、源だけでなくすでに山元をも巻き込んでいることを銀爾は伝えていた。
 山元が渋川で調べた、「猟師の遺体を発見した視力の優れた美人の娘」があずさ、つまり山元の姪だったこと。そして彼女は、自身の悲しい最期を見てしまったかのように、朝のほぼ同時刻に谷底の濁流に翻弄される哀れな死体を発見した。
 山元が言ったように、父の無念と執念が阪東橋を歩く《実の娘》に事件の糸口を見つけさせたのか、そして…、子どもを抱えてゆきの谷に舞った母の黒い記憶が、苦悩の根源だった《他人の子》に深い谷底から語りかけたのか…。父の遺志にけなげに従い、心痛を押し殺し無理に無理を重ね、双児の姉妹をわが子のように育てて来た母の心の本音が最後の瞬間ついに崩壊し、あずさをビルマのあの深い谷に引きづり込んだかのように源には思えた。
 源は今朝、兄弟二人で歩いて通った小径から見たあの深い谷と、あずさが散ったビルマの名も無き谷の光景が重なり、忘れられずにいたのだ。あずさにとっては、あそこが彼女の《ゆきの谷》だったのか…、源にはそう思えてならなかった。
 源は、もはや次々と込み上げて来る熱く、冷たく、あまりにも悲しい想いとその流れを、止めることができなかった。ただ事ではないと感じた田所は、要領を得ないまま呆然と立ちすくみ、右頬を痙攣させながら目の前で嗚咽する源と入口で訪問者に挨拶を交わす山元の双方に忙しく視線を配った。うずくまって震えていた源にも山元の大きな声が聞こえた。
「やぁ、遠路はるばる松山から、一家おそろいでよく来てくれたね。二人はすでにお待ちかねだよ」
 山元の弾むような挨拶に続く訪問者の応答は意外にも、か細い女性と野太い男の混声だった。
「ありがとうございます」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋