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ゆきの谷

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 源は瞬時に複雑な感情を交錯させた。それは、輸送船上で息子の安否を気遣い、狼狽しながら親子ほど歳の違う自分に情報を求めたあの老兵、関川誠に対して、(自分の告白が嘘にならなくてよかった。あなたの息子が無事で何より…)という素直な気持ちと、(あなたの息子は戻ったが、あなたが『赤い雪』のメンバーに引き入れた自分の父は死んだ…)という、持って行き場のないもどかしさだった。
 再び田所が、腑に落ちないようすで、首をかしげながら口を開いた。
「源の父が死んだあとも、越智がオレの奉公先の加藤家にまで現れたのはなぜなんですか。菱刈さんが梓織さんを連れ戻すためではなかったのですか」
「ああそれか。
 話が少し戻るが…、熊倉少佐は惣平が特高に射殺された報告を済ませたあとも、父からの次の命令を想定して、吉澤家と加藤家に秘かに見張りを残しておいたのだ。少佐は、次は当然『梓織を連れ戻せ』という命令が出ると思っていたはずだからな。
 しかし、加藤家に配置され当初は影の如く目立たぬよう秘密裏に見張っていた越智は、思わぬ光景を目にして影の存在を放棄した。
 惣平が死んで間もなく、未亡人となったユキ乃が梓織のことを弥太郎に相談するため加藤家を訪れた。このとき応接した加藤の妻と息子は、弥太郎が突然前線に送られ不慮の死を遂げた理由が、惣平とその娘を匿ったためであったことをはじめて知った。怒りのやり場を探していたちょうどその頃、新治の知人から『娘をあずかってくれ』と話があり、二人は女中として迎え入れた。むろんそれが弥太郎に非命をもたらした張本人とも知らずにだ。
 ところがある日、本人のささいなおしゃべりから、あろうことかその娘こそが怒りをぶつけるべき対象であることを知ってしまう。このときから二人は梓織に辛くあたるようになった。越智が見た光景とは、梓織が加藤家の二人から凄惨な虐待を受ける悲惨な光景だったのだ。彼女に同情し、その同情は愛情へと変化して行った…」
 山元は不敵な笑いを浮かべ、田所の顔をのぞき込んだ。そしておもむろに柱時計を見やった。
「ちょっと待ってください」
 突然、源が何かを思い出し、山元に詰め寄った。
「山元さんは、この事件にまつわる『約束』をご存じですか」
 一瞬考えたのちに、山元はうなづいた。
「ああ、オマエ、ビルマでも言ってたなぁ『父が誰かとの約束に執着していた』と。それは、関川による誘拐を阻止するために、赤ん坊を一旦惣平が病院から連れ出したあとのことを話し合った際の、惣平と衣久の約束だろう」
 山元の解説に首を振り、即座に否定しつつ源がたたみかけた。
「惣平と衣久さんの約束は、自分も兄と事件を推理した際に、おそらく『駆け落ちか何かだろう』と容易に察しがついたのですが、実はそれとは別にもう一つの『約束』が存在するんです。それは兄が偶然耳にした、自分の母と祖父の会話に登場したものです。何か、…何か心当たりはありませんか?」
 山元は考え込んだ。源はここまで綿密に調べた山元のことだから、おそらく祖父のことも、そしてあわよくばこの『約束』のことも調査済みではないかと期待したのだ。
「祖父というのは、烏丸菊之助さんのことだよな。彼とキミの母、つまり実の娘との間にどんな約束があったかは分からんなぁ」
「いや、祖父と母の約束ではなく、二人の会話に出て来た、おそらく父と誰かの『約束』です」
 山元はしきりに小首をひねり、分厚いファイルのページを激しくめくり続けた。
「…分からん。少なくともオレが調べた限りでは、もう一つの『約束』なるものは確認できなかった」
 (やはり山元は烏丸菊之助も調べていたのだ)プロの興信所の調査力に感心しながら、源は頭を垂れた。実はかねてから、兄との間ではこの『もう一つの約束』こそが、事件の重大な秘密を解く鍵であると思えてならなかったのだ。
 しかし経緯がどうあれ、結果的に父が共産主義者として特高に処刑されたという新事実が判明しただけで、源はすでに十分だった。そして惣平を殺した首謀者だと思っていた菱刈さんが、つまり山元の父が実は惣平を助けようてしていたことがわかり、源は内心嬉しかった。少なくとも源と山元の双方が憎み合う理由が消滅し、むしろ感謝すべき事実であることが理解できたからである。
 三人は再びほぼ同時に煙草をくわえて点火、一斉に白煙を吐き出した。気がつくと、山元がしきりに気にしていた柱時計は、すでに夕方の四時を差していた。源はぼんやりと、(今朝一緒に出て来た兄が、水上の家に帰宅した頃かな…)などと考えた。
 煙草を持ち替えながら室内を見まわしているうちに、色褪せた小さな肖像画が目に止まった。それは、あまり特徴をつかんでいるとは思えなかったが、若い女性だった。それを見た瞬間、自身と変わらぬ姉への強い想いを持つ山元のことだから、衣久に違いないと源は推測した。視線を戻そうとしたそのとき、肖像画の下に置いてあった二つの小さな、黒い額縁入りの写真に気づいた。よく見るとそれは、二人とも山元に酷似した陸軍士官だった。一人は大佐、もう一人は中佐…。
 黒縁の意味を理解し、二人が誰であるかを察した源が黙祷していると、ほぼ同時に二つ大きな音が鳴り、源の視線と意識は強制的に引き戻された。一つは、けたたましい電話のベルの響きであり、もう一つはドアを叩く、中華の出前とは比較にならぬほど大きなノックの音だった。

●運命の電話と訪問者

 電話は隣室の秘書が出たようで、それを確認した山元は再び時計を確認したのちにソファから飛び上がり、二人を一瞥するとドアに向かった。
「どうやら本日の、主賓の一家が到着したようだ」
 山元は室内の二人に行き届くようわざと大声でそう述べると、嬉しそうにドアに向かった。ちょうど山元と入れ代わりに隣室の扉が開き、神経質そうな婦人が顔をのぞかせた。
「吉澤源さんは…」
 先ほどの秘書だった。源は入口に向かう山元の背中を見送り、田所と不審そうに顔を見合ってから立ち上がった。
「自分です」
「吉澤銀爾さんという方からお電話です。こちらでどうぞ」
 そう言うと婦人は、ソファのすぐ横にあった別の電話器から受話器を取り上げ源に手渡した。軍隊時代にわずかに触った程度の不慣れな源は、恐る恐る受話器を耳に押しつけた。窓に向かって立つ源の視界には、横濱
の街を照射するオレンジ色の美しい夕陽が広がっていた。
「は、はい。源です」
 初めて聞く電気と化した銀爾の声は、その大きさにひび割れ、異様に興奮していた。
「ああ、源か。山元さんからの封筒に電話番号が記されていたので、公衆電話のある公民館まで来てかけている。た、大変なことがわかったんだ。…ちゃんと聞いてるか」
 受話器から響く大声と荒い息に閉口しつつ、源は機嫌の悪そうな返事をした。
「そんなに大きな声を出さなくても十分聞こえているよ。それでどうしたの?」
 銀爾は源の返答で冷静さを取り戻し、一つ深呼吸をして今度は落ち着き払った低く小さな声で続けた。
「今朝、仕事の打ち合わせで大学の研究室に入って間もなく、資料の家紋辞典を調べていた。そしてある家紋を見たとき、突然閃いたんだ。山元さんの義父がもらしたという『ともえ』の意味を…」
「……?」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋