ゆきの谷
山元や周囲の者は、感心したように黙ったままうなづいた。しかし源にとってはつらい話だった。水は冷たく流れも強いであろう増水時の河川を、片脚で渡るのは命取りであると思えたからである。源は左脚をさすりながら、恨めしそうに暗い空をにらみつけた。山元はそんな源に気づくと、明るい表情でやさしく語りかけた。
「心配するな吉澤、オレが助けてやる。これだけの仲間もいるんだ、大丈夫だよ」
ありがたい言葉だったが、そう言われて振り返り、荷台の同乗者を見渡すと、半分以上が負傷兵だった。脚に傷を負っている者が、源のほかにも四名ほどおり、助ける側より助けられる側の方が多いことを改めて確認した源は、(あまり過度な期待はできんなぁ)と、憂慮のため息をもらした。
●川のほとりの防空壕で
トラックは、下り坂にさしかかってから一時間ほど進むと急停止した。みな何ごとかと身を乗り出して前方を見た。すると、予想通りに川は大増水し、橋は完全に水没していた。
トラックを運転していた自動車中隊の下士官は、「本車輌は引き返すから、ここから先は歩いて行ってくれ」と言い、荷台の全員と郵便袋を降ろし、部下を二名残して元来た方向に走り去った。
ほどなく、残った者の中で最上級者である、背の高い中尉が弱々しい声でみなに語り出した。
「自分は中尉なので、本来メイミョーまでの間、本集団の指揮をとるべきであるが、ごらんのとおり胸と右脚に傷を負っておるので、みんなの足手まといになる可能性が高い。したがって、自分に代わりこの宮原少尉に指揮をお願いする」
二人はすでに談合していたと見え、宮原少尉は驚くようすもなく一歩前へ出た。
「自分は、弓(三三師団)の参謀だった宮原正己だ。メイミョーまで一人の落伍者もなくたどり着くために精一杯がんばるので、どうか諸君も協力してほしい」
若い少尉だったが、誠実そうな好感の持てる青年だった。宮原少尉は、簡単な挨拶を終えると小休止を指示し、小さな窪地に座り込んでいた中尉の元へ歩み寄り、輜重兵二人を呼んで対策会議をはじめたようであった。
周囲には、以前ここを通ったどこかの部隊が掘ったと思われる小型防空壕がたくさんあったので、少人数ごとに分かれて適当な壕に入り、雨宿りをすることになった。
山元曹長は先ほどの言葉どおり源に肩を貸し、ゆっくりと壕へ案内してくれた。源を座らせ、自分もその横に腰をおろすと、煙草を取り出して火をつけた。そして、煙を一息吐くとそれを源に差し出した。
「自分はやりませんので」と断わると、曹長は「そうか」と言い、今度はうまそうに深く吸い込んだ。
「煙草はいいぞ、戦場での唯一の贅沢だ。逆立った神経も和らげてくれるしな。ときに吉澤、オマエ何歳だ」
山元は、質問の言葉と白い煙を同時にはきながら赤茶けた顔を源の方に向けた。
「はぁ、二一です」
源の言葉に、驚いたようなおおげさな表情をし、山元は煙りを手で払いながら言った。
「二一か、見た目より若いのう。オレより一◯も下ということか」
源も驚いた。実際年齢よりも上に見られることなど、今までになかったからである。久しく鏡などのぞいていないが、さぞかしやつれ、老け込んでしまったのだろうと思った。
「オマエ、鹿児島の指宿って知ってるか? オレの故郷だ」
「鹿児島はもちろん知っていますが、イブスキ(?)は知りません。九州はもとより、長野から西へは行ったことがないですから…」
痛む左脚をさすりながら、あまり興味なさそうに源が言うと、山元は源のようすなど気に止めない風情で、勝手に語りはじめた。
「蒼い海があって、山や湖があって、きれいな小川が流れていて、それはいいところだ。子どもの頃は、陽が暮れるまでドジョウを捕ったり、トンボを追いかけたりしたもんだよ」
それは、戦地で上官からよく聞く「故郷自慢」の典型的なパターンだった。源が「自分は東京出身です」などと言うと、よほど東京はひどいところだと思われているようで、なぜかみな同じように同情的な目で見下し、「オレの故里は…」と自慢話しをはじめる。確かに東京はあまり特長のない大都会ではあったが、想い出に残る「子どもの遊び場」ぐらいに事欠くことはなかったし、自慢できるいいところだってたくさんあるのに。
どうも、大日本帝国の陸軍軍人には、自分の故郷を日本一と思い込む悪いクセの持ち主が多いようだと、源は以前から不満を募らせていたのだ。最後を締める言葉は決まって「本土に帰れたら一度は来てみろよ、きっとオマエにもその良さがわかるから」なのだ。源はそんな気分で、山元による「イブスキ」の地勢学的・文化的考察を適当に聞き流していた。
「オマエ、聞いているか?」
「あっ、はい。ちゃんと聞いております」
源に注意を促すと、山元は白い歯を見せながら笑顔で続けた。
「本土に生きて帰れたら一度は来てみろよ、指宿に。きっとオマエにもその良さがわかるから」
「………、あっ、はい」
そのとき、宮原少尉が走り込んできた。二人が敬礼のために立ち上がろうとすると、手ぶりでそれを制し早口で告げた。
「雨が小降りになってきた。上流の方ではやんでいるようだ。したがって、ここで水位が下がるのを待つことになった。指示があるまで休息を続けろ。以上!」
少尉は言い終わると、すぐさまとなりの壕へ走り去った。二人は無言のまま見送った。
「…吉澤、実はオレ、『あずさ』って娘に会ったことがあるんだ」
源は、突然の山元の言葉に驚いた。
「あのとき上等兵が言っていた、『メイミョーの小料理屋で…』って話で思い出したんだ。オレはその小料理屋へ何度か行っている。その店は将校専用だったが、師団付き参謀の上官が特別に連れて行ってくれたんだ」
山元は表情を曇らせ、細い消え去りそうな声で続けた。
「あの娘のことだったのか…。そうだな、確かに笑うとエクボがあった。死んだのか…」
その声と浅黒い顔は、しだいに哀し気に変化していった。
「オマエとは、なぜか不思議な因縁を感じる。あの娘を覚えていたのは、オレもオマエと同様に、彼女が姉に似ていたからなんだ」
再び驚き絶句した源には気づくようすもなく、山元のか細い声が続いた。
「だがその姉は、オレが六歳のときに自殺した。オレが知っている姉の顔は、永遠に微笑み続ける遺影の顔なんだ」
源は言葉を失い、自分と境遇の酷似した山元に妙な親近感を持った。そして、軍隊では話すまいと思っていた家族や自分のことを、この男にだけは、なぜか無性に話したくなるのを感じた。しばらくの沈黙ののち、源は口を開いた。
「曹長殿、実は自分の姉も、自分が一◯歳のときに生き別れました…」
山元も驚いたようすで源を見つめ、まるで自分の身内のことを心配するように、真剣な顔で問い返した。
「姉さんは亡くなったのか?」
「なにせ、自分が幼い頃のことだったのでよくはわからなかったのですが、…噂では、そのようです」
黙ってうつむいた山元は、しばらくすると頭を上げた。そして浅黒い顔に急ごしらえの笑みをたたえ、明るい声で言った。
「オマエのこと、いろいろと知りたくなってきたよ。姉さんのことも、家族や『オマエの故郷』のこともな…」