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ゆきの谷

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 源は、呆然と山元の顔を見上げた。そして心の中で感心していた。(やっぱりこの下士官は、自分が知る限り今までにいなかったタイプだ。大日本帝国陸軍の軍人にも、こんな人がいたのか)…と。



【二人の半生】

●源の家族

 辺りはすっかり暗くなり、そこここの壕からイビキが聞こえはじめた。下の方では、河川の激流が轟音を立てていたが、源は妙に和やかな心境だった。それはおそらく、この作戦が始まって以来、はじめて体験する驚くほど穏やかな夜だった。
 源のとなりでは、山元曹長が煙草をふかしながら、源が口を開くのを待っていた。
「曹長殿は、昼間、トラックの上で『堅苦しい軍隊用語はやめろ』とおっしゃいましたよね」
 山元は少し間をおき、戸惑ったような口調でうなづいた。
「あっ、あぁ言ったよ」
「自分は入隊したとき、個人的な話はなるべくすまいと考えていました、特に上官には…。なぜかというと、軍隊式の敬語や謙譲語では、心のこもった話がうまくしゃべれないと思ったからであります」
 山元は少し笑った。
「オレは、『コイツとは腹を割ってつき合いたい』と思うヤツには、常にそう言ってきた。しかし、みな階級の壁を越えられず、オレに近づいてくる者はあまりいなかったよ。
 吉澤、オマエとも親しくなりたかったから、ああ言った。オマエの言うとおり、軍隊式の敬語で腹を割った話ができるわけないからな。遠慮するな、勇気を出してふつうにしゃべってみろよ」
 まさに山元が言うとおり、それは勇気のいることだった。二年間の軍隊生活で、徹底的に身体に染みついた上官との唯一のコミュニケーション手段を改めるのであるから。源がもじもじと緊張感を高めていると、山元がひょうきんな語調で切り出した。
「吉澤クン、キミの下の名前は何だっけ?」
「…源ですよゲン。山元さんは?」
 山元の少年のような目は、和やかに笑っていた。
「オレは洋作だ、山元洋作。オレはオマエの上官…、いやっ、兄貴分だから、これからは源と呼ぶぞ!」
 そう言いながらようすをうかがう山元に、源も満面の笑顔を返した。
「自分の親父は、信州の茅野という町の出でした。子どもの頃から祖父より狩猟技術を伝授された父は射撃が得意で、軍に入隊後は『狙撃の名手』と、たいそう誉められたそうです」
 山元は、一瞬だけ妙な反応をしたが、狙撃のポーズでおどけたりしながら源の話に聞き入った。
「母は群馬の山奥の貧しい農家出身で、幼い頃から苦労がたえなかったそうです。尋常小学校を出るとすぐに遠縁の親戚をたよって上京、横浜の町工場で働いていたそうです」
 山元は、うなづきながらポケットからクズのような乾パンを取り出して口に放り込むと、源にも一つまみ手渡した。
「父の惣平も退役後、陸軍の兵器局員だった知人の紹介で、横浜にできた兵器工場に勤めました」
 山元の目が輝いた。
「すると、二人は横浜で知り合って婚姻の契りを結んだわけか」
「はい、父は二三歳、母は二一歳だったそうです。工場のあった磯子というところで結婚し、新居は同じく横浜の鶴見に構えました」
 今度は何かを思い出そうとしているようで、山元は右手で後頭部をかき混ぜながらしきりに考え込んだ。
「う~ん、『イソゴ』という町の名は、どこかで聞いたことがあるような気がするのだが、思い出せんなぁ」
「知っているのですか? 自分は母から聞いただけで行ったこともありません」
 しばらくうなっていた山元は「まぁ、いいや」と顔を上げ、話の続きを促すように、陽気にあごをしゃくった。
「結婚から一年半後、兄の銀爾が産まれました。『初産は郷で』という慣わしのとおり、母は実家の群馬で出産したのです。翌年、鶴見の自宅で姉の梓織が産まれました。偶然ですが、梓織の『し』は、『あずさ』という字なんです…。そして、四年後の大正一一年に、姉の誕生直後に引っ越した東京の世田谷で自分が産まれたわけです」
 山元は指を折りながら素早く計算し、
「三人兄弟で、兄上と姉上は年子、オマエは姉さんの四つ下か、それじゃあ、ずいぶん甘えん坊に育ったな、源は…」
 と、白い歯をむいた。
「そういえば、トラックの上でも感じたのですが、山元さん、父の話に何か気になることでも?」
 山元は笑顔のまま、すぐに応えた。
「いやなに、実は以前、兄から『長野県出身の狙撃兵』の話を聞いたことがあったものでな…」
「へえ、奇遇ですね。うちの父だったりして」
「ワッハハハ、いくらなんでも長野はそんなに狭くないだろ。ちなみに、父上は今でもその工場に?」
 源の顔から笑いが消えた。ゆっくりとうつ向いた源に気づいた山元は、瞬時に反応して真顔に戻った。

●父の事故死

「自分が産まれた三年後に、今度は群馬の水上に越しました。そこで百姓をはじめたのですが、自分が九歳のときに、父は亡くなりました」
 重たい空気が二人の壕を支配した。
「病気か?」
 山元は重苦しい沈黙を嫌うように、やさしく問いかけた。
「それが、自分にもよくわからんのですが、母や地元の駐在さんは事故だと…」
「事故? 何の事故なんだ、オマエが『よくわからない』ってどういうことなんだ」
 源は目を閉じ、のちに聞いた母や兄の説明と自分の記憶をすり合わせ、あらためて事故当時の状況を整理した。その姿はまるで、父の冥福を祈っているようでもあった。そのようすから、ただならぬ事情を察した山元は、源に注意をはらいつつ、足下にころがっていた煙草の吸い殻を拾い、短くなった先端に再び点火した。
「昭和七年四月一五日。…その日は、ちょうど今日のように、朝からどんよりと雲っていました。父は日課になっていた、山菜採りに出かけたんです。いつもの山の通い慣れた獣道を入って行ったそうです。ところが山に入って間もなく、熊狩りに来ていたという猟師の銃弾が、誤って父に当たったというんです」
 山元は絶句し、瞠目した。
「猟師の通報で駐在さんや消防団がすぐに山に入ったそうですが、発見されたときは、すでに絶命していたそうです」
「く、熊? 銃弾?」
 と、山元はせっかちに煙を吸っては吐きながら、切れ切れに反復した。
「銃弾というのは散弾か?」
「いえ、七・九二ミリ弾だったらしいです」
 山元はすぐ横に立てかけてある愛用の小銃に目をやり、つぶやいた。
「三八ではないな…」
 三八とは、六・五ミリ弾を使用する陸軍の制式小銃、「三八年式歩兵銃」のことである。
「警察だけでなく、憲兵まで現場に出入りしていたようすから、子どもながらに『何か変だぞ』と疑問に思ったことを、今でも鮮明に覚えています」
 眉をひそめ、神妙な表情でうなづいた山元は、突然、思いついたように質問した。
「それで、その猟師はどうなったのだ? 逮捕されて裁きを受けたのか?」
 源は、山元の質問を予想していたかのようにすぐ反応し、たたみかけた。
「そ、それが不思議なんです。結局、父の死は不慮の事故と判定され、猟師は簡単な取り調べを受けただけで釈放されたらしいのですが、遺族に一言の詫びもなく、それっきり姿を消してしまったそうです。おかしいでしょ」
「……」
 山元は短くなった煙草をくわえたまま腕を組み、けむたそうに目を細めてしばらく考え込んだ。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋