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ゆきの谷

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 空は相変わらず鉛色の雨雲が充満していたが、まだ降りはじめてはいなかった。同乗のベテラン伍長によると、「行軍日和」なのだそうだ。いわく、「雨雲が低く垂れ込めていれば、この辺の敵機は飛ばないので空襲の心配がない。それでいて雨に降られなければ、荷台でも煙草が吸える上、トラックのタイヤが泥にはまり降りて押すはめになる心配もないから…」
 荷台には和やかな空気が満ちていた。いろんな事情があるにせよ、みな戦場から遠ざかることができる幸運と喜びをかみしめているような、明るい表情をしていた。
 いよいよトラックが動き出した。揺れるたびに衝撃で傷が痛んだが、源は子どものように「オーッ動いた、動いた」と奇声を上げてはしゃいだ。空を見上げると、雨雲はなおも低く、まだ朝なのに夕方のように薄暗かった。なるほど、伍長の言うとおり敵機の気配はなかった。
 トラックはゴーッというけたたましい音を轟かせて、師団本部前の坂を登った。
 前方に倒壊した病棟跡が見えてきた。まだ撤去も修復もはじめられず、被爆時のままになっていた。その先には、ここの古参兵たちが「小袖橋」と呼ぶ小さな木製の橋がある。
「あの娘の亡きがらは、まだあの谷底にあるのだろうか」
 源の顔から微笑みは消え、いつの間にかこの日の空のように曇っていった。そして昨日の悪夢を思い出していた。
 トラックは加速し、「小袖橋」を一気に渡りきった。深く切り立ったガケ下の谷底が、ほんの一瞬だけ見えた。そして源には、まるでフラッシュライトのように、小さな白い点が見えたような気がした。
その瞬間、目を閉じて、彼女や松葉杖を造ってくれた軽傷者仲間たちに黙祷を捧げた。
 しばらくすると、源は「ポン」と肩を叩かれた。
「よう、元気か一等兵、脚の具合はどうかね?」
 聞き覚えのある九州訛だった。
「あのときの曹長殿、乗っておられたのですか。昨日は礼を言う時間もなく、失礼しました」
「礼なんていいよ、戦場じゃお互いさまだ。それから堅苦しい軍隊用語もやめろ」
「………」
 この曹長はこれまで接してきたほかの下士官たちとは、どうやらタイプが違うようだと源は思った。
「でも曹長殿は命の恩人であります。…あ、ありがとうございました。自分は吉澤源一等兵であります」
「吉澤源…? ああ、確かオマエは上等兵になっているはずだぞ、オレは師団司令部付きだったが、前線から後送されてきた兵の内、オマエを含む四名が昇進していた」
 曹長は、源の顔とボロボロになった襟章を交互に見ながらそう言った。
「ハァ、…そうでありますか」
 源には昇進など、どうでもいいことだった。そんなことを喜ぶより、何だか申し訳ないような気持ちになった。前日、源が心の中で罵声を浴びせたあの将校は、間違えていなかったことになるからである。(でも、昇進ならそうと言ってくれればよかったのに)と思い直し、申し訳ないと思った気持ちを心の中で撤回した。
「オレは山元だ、よろしくな」
 山元曹長は、年の頃が三◯前後の、がっちりした体格の男だった。鼻筋の通って引きしまったその顔を、源はどこかで見たことがあるような気がした。
「ところで吉澤、オマエ、橋のところで拝んでいたように見えたが、あそこで戦友でも死んだのか?」
「見ておったのですか。…実はあの谷で。野戦病院で看護婦をしていた女性ですが…。自分の姉に似た美しい人でした」
「そうか、女か…」
 もしかしたら、山元曹長は彼女のことを知っているかもしれないと思い、彼の顔をのぞき込むように、たたみかけた。
「ご存じないですか、白い洋服を着て、自分たちの病棟で負傷者の世話をしていた娘です。髪の毛がこのぐらいの長さで…、笑うとここにエクボができる…」
 源は手ぶりを交えて説明したが、山元は黙ったままだった。
「オレはずっと、師団司令部にいて、病棟の方へはあまり行かなかったからなぁ、知らんなぁそんな娘は…」
 すると、二人の会話を聞いていた年配の上等兵が、突然割り込んできた。
「あぁ、それはきっと、『あずさ』ちゃんだ」
 二人は驚いて、振り返った。
「コラッ、上等兵! 純情な青年の恋愛話を盗み聞きするとは、何ごとか!」
 山元の怒声が本気でないことは、そのにこやかな顔から、源も上等兵もすぐにわかった。…が、その声の大きさに驚いた。荷台にいたほかの将兵も一斉にこちらを見た。山元はつくろうように、今度は小声で言った。
「ところで、その『アズサ』というのはどんな娘だった?」
 三◯代後半と見られる東北訛の上等兵は、源や山元、ほかの同乗車たちの視線が集まる中、おどおどと語り出した。
「なんでも、メイミョーの小料理屋で女中を…」
 源が病棟で聞いた噂とほぼ同じだった。同乗者の中にも彼女を知っている者が何人かいたらしく、ざわざわと彼女についての情報交換の小声が交錯した。
「あずさ、か…」
 上等兵によれば、その名が本名か小料理屋での愛称なのかは誰も知らなかったらしいが、源にとってはどうでもいいことだった。とにかく、源の心の中に生き続ける彼女に、呼び名がついたことだけは確かなのだから。
「…たぶん、『あずさ』というのは本名ですよ、出身地はおそらく長野」
 みなが驚いたように源に注目した。
「オマエ、何でそんなことわかるんだ?」
 山元が怪訝そうに聞いた。
「病棟の仲間から、彼女の出身地は長野か岐阜らしいと聞いていました。『あずさ』は、元々山に自生する木の名前、版画の板や弓矢のゆみに使われる木です。信州は、その『あずさ』の名産地なんです。だからきっと本名だろうと…」
「へえ、そんなこと、よう知っとるな、オマエも長野の出なのか?」
 今度は年配の上等兵が源にたずねた。
「自分は東京です。父が信州の出で、昔、幼かった自分をよく奥多摩や秩父の山に連れて行ってくれました。関東のその辺りの山には『あずさ』の木はありませんでしたが、森を歩きながら山や川、花や木のそんな話をよくしてくれたんです」
 みな黙って聞いていたが、山元はなぜか刺すような鋭い視線で源を見つめていた。
 雨雲に被われた空は、出発時よりもむしろ明るさを取り戻してきたようだったが、「行軍日和」もついに命運つき、大粒の雨が降り出した。
「こりゃ、降ろされて歩くはめになるなぁ」
 このルートを、何度か通ったことがあるという同乗者の工兵の一人が、空を見上げて残念そうに言った。
「数キロ先に谷があるが、そこの川は少しの雨でも増水し、オレたち工兵が苦労してかけた橋も冠水してしまう…」
 すかさず山元が、「それでは橋も流されてしまうのではないか」といぶかしげに詰め寄ると、その兵隊は土佐訛を強調するように、胸を張って返答した。
「曹長殿、土佐の四万十川にかかる『沈下橋』をご存じないですか? はじめから流れに呑み込まれることを想定して、激流の抵抗を最小限に保てるように工夫して造られた、素晴らしい橋なんです。そこも、その沈下橋なんですよ。だから流失することはないんです」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋