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ゆきの谷

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 そう言うと、山元は再びカイゼル髭をつまみ、口を開いた。
「…ちょうどこの頃、朝鮮で独立運動の気運が一気に高まり、騒然とした世相に乗って、『赤い雪』は過激派路線へと移行する過渡期を迎えていた。革命を推進するための手段として、実力行使も辞さずと。そこで、ほとんど軍に人脈を持たなかった『赤い雪』は、早急に有力な工作員、つまり優れた狙撃手を見つけ出す必要に迫られたのだ」
「だ、だから吉澤惣平が…」
 源をいたわるように見つめていた田所が相づちを打った。山元は素早く熊倉ノートをめくり、読み続けた。
「少佐が鴨志田から押収した暗殺予定リストには、政府、軍民のそうそうたるメンバーが名を連ねていた。ときの内閣総理大臣=原敬、大蔵大臣=高橋是清、陸軍大臣=田中義一、外務大臣=内田康哉、海軍大臣=加藤友三郎、文部大臣=中橋徳五郎。軍人では、宇垣一成、武藤信義、南次郎、渡辺錠太郎、斎藤実、島村速雄、八代六郎…。民間思想家は、北一輝、大川周明、鹿子木員信、本間憲一郎、頭山秀三など…。
 リストは重要度順に序列がつけられており、Bランク九番目の名を見てオレは慄然とした。そこには『パリ駐在武官 菱刈賢清』と記されていたのだ…」
 室内が水を打ったように静まり返った。山元はすでに冷めてしまったコーヒーを構わずすすり、のどを潤した。カップをソーサに置くカチャッという音がまるで合図のように響き、山元は再びノートにのめり込んだ。
「吉澤惣平は、『国家の将来を想えば、軍が政治に介入して行く様はよろしくないという貴殿らの意見には無条件に同意する。しかしそれを阻止し解決する手段が、社会主義革命であるなどとは到底思えない…』と頑に拒否した。しかし結局、一時的にせよ脅迫に屈し『赤い雪』の名簿に名を列ねることとなる。工作(狙撃)担当としてな…。
 惣平は、衣久のことで菱刈賢清に負い目を感じていた。だから、彼をスキャンダルと共産主義者の暴力から守るために、やむを得ず形だけのメンバーになったんだ。
 猜疑心の強い関川は、そのことまで見抜いていた。だから鴨志田に赤ん坊の誘拐を命じたんだ。つまり、惣平が裏切らないように人質を取ることにした。その計画を直前に察知した惣平は、衣久に事の経緯をつまびらかにし対策を練った。
 二人は協議の末、赤ん坊を守るためにとりあえず一旦隠すことにしたのだ。衣久は泰然と病院に残って囮となり、惣平がこっそり赤ん坊を連れ出して自宅で匿う。むろん惣平はそのために、妻のユキ乃にもすべてを告白し協力を半ば強要した。ユキ乃の女としての心情を顧みる余裕など、おそらくなかっただろう…」
 そこで一旦口を閉じた山元は、チラッと源を見た。その表情は、ユキ乃が水上へ移った直後に、兄と姉を伴い親子心中をはかった事実も調査済みであることを暗に感じさせた。
「これが、惣平が梓織を連れ出した理由だ。もちろん、衣久と惣平の二人が話し合って決めたことであり、断じて誘拐などではなかった…」
 田所がすぐに詰め寄った。
「二人で相談して決めたことなのに、なぜその後、衣久さんは錯乱し自害されたのですか?」
 山元の目が光った。例の刺すような鋭い視線である。
「関川と鴨志田が仕組んだ報復だよ。人質取得のための『赤ん坊誘拐計画』をすんでのところで阻止された関川は怒り、惣平の知人を装おうなど何らかの方法で衣久に近づき、『惣平の裏切り』を創作して吹き込んだ。病院に惣平が近づけないようメンバーでガードを固め、その間、衣久に偽の『惣平の裏切り行為』を執拗なまでに数えたて、信じ込ませたのだ。…まったく、汚いヤツラだ!」
 山元は目を潤ませて、力強く熊倉ノートを閉じた。おそらく次のページからは、衣久が錯乱し病院の屋上から身を投げるまでの詳細が記されているのだろうと、源は思った。
 充血した双眼を見開いたまま、山元は続けた。
「鴨志田から衣久が亡くなったことを知らされた惣平は、衝撃を受け一時的に錯乱したがすぐに冷静さを取り戻した。そして熟慮の末、せめて衣久の忘れ形見だけは守り抜こうと決心し、後ろ髪を引かれる思いで横濱をあとにした…」
 古びたノートをつかむ手に、悲しいぐらい力を込める山元の心情を察し、源は再びゆっくりと目を閉じた。

●もう一つの「約束」と、もう一つの「谷」

 かすかに聞こえる都会の喧噪と、静まり返った室内の重苦しい空気を払拭したのは、今度は源のか細い発声だった。
「山元さん、オレ実は関川誠に会いました。まったくの偶然なんですが…」
 山元は充血した双眼を見開いて驚き、身を乗り出した。
「ほ、本当か?」
「はい、当時の彼は陸軍一等兵でした。助けられた潜水艦から沖縄へ向かう輸送船に移された直後、船内で言葉を交わしました。潜水艦で支給された海軍服を着ていた自分を不審に思って、向こうから声をかけてきたんです。自分は狙撃兵特有の指をこする癖があったので、それを見た彼はオレを狙撃兵だと即断し、それと馴染まない海軍服を不思議がったのだと思います」
「…そうか。やはり奴は逮捕をまぬがれていたのか。一斉摘発のどさくさにまぎれ、特高と何やら取引きをしようと画策したらしいという記述が熊倉ノートに書かれていた。取引きのネタは『惣平と衣久の、つまり菱刈賢清のスキャンダル』だったのではないかと熊倉少佐は推測している。しかし結局、関川が逮捕されたかどうかはわからなかったようで、少佐のノートは『?』で終わっている。
 オレが彼の故郷である新潟の村上へ調査に出向いた際、地元の人々は『…ああ、愛想のいい関川オヤジのことか。その頃だったら時に留守がちではあったが、いつもと変わらず元気に百姓をしていた』と話してくれた。むろん彼らは、関川誠が地下革命組織の幹部などとはまったく知らなかったが…。つまり、一斉摘発によって特高に拘束された可能性はかなり低いということだけは理解できた。
 おそらく、その後は百姓になりすまして摘発ラッシュをやり過ごし、タイミングを見計らって陸軍に逃げ込んだのだろう。それがいつ頃だったのかはわからんが、老兵とはいえ予備役の元兵隊が進んで志願すれば歓迎されるはずだ。少なくとも入隊後すぐに下士官に昇っていても不思議ではない。なのに、源が目撃したとおり本当に一等兵だったのだとしたら、革命家としての素性が発覚することを恐れ、有利な予備役の身分を放棄してまったくの別人になりすまし、新たに志願したのかも知れんな。まったく悪知恵の働く奴だ。軍に入ればお国が税金で、わざわざ外地に『高飛び』させてくれる…」
 山元はやるせなさそうな視線を天井に投げ出し、しばらく沈思したのち源に向き直った。
「奴は相当に頭の切れる男らしいから、船上でのオマエとの短いやり取りで、オマエが惣平の息子だと見抜いたかも知れんなぁ。変わったところはなかったか?」
 山元はそう言うと源の返事も待たず、何かを思い出したように、急に元の重厚なファイルを再びたぐり寄せ、パラパラとページをめくった。
「…ああこれだ。ちなみにオマエがペリリュー島で一緒に戦った息子の賢吾は、終戦も知らずに戦い続け、…というより潜伏を続け、昭和二二年四月二一日に収容され、その後無事に帰国している」
「関川賢吾か…」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋