ゆきの谷
しかし、優秀な狙撃手を持たなかった特高は、陸軍近代化の指導のために来日していた同盟国ドイツの陸軍山岳部隊所属の狙撃兵数人を秘かに雇い入れ特別チームを編成した。
そして運命の昭和七年四月一五日──、
直前になって惣平の居所をつかんだ熊倉少佐は、当日の朝、ようやく水上に入った。ところが、特高がすでに数日前から水上入りしていることを察知した少佐は『特高によるホシの暗殺を阻止するためには、非常手段も辞さず』と命令したそうだ。
もしこの作戦が実現していたら、期せずして群馬の山奥で内務省(特高)対陸軍省の銃撃戦が勃発するところだった。日本の歴史が変わっていたかも知れん。
しかし──、残念ながらそうはならなかった。
憲兵隊が現場付近に到着したとき、すでにホシを補足していた特高の捜査員と青い瞳の狙撃手は配置に着いていたんだ。地理に不案内な憲兵隊員らは、手分けしてがむしゃらに山へ入り込み、大声で惣平を呼んだ。彼らも惣平を救おうと必死だったんだ。
そしてほどなく、谷川山系にKar98k独特の乾いた鈍い銃声が響いた。彼らの必死さが、結果的に惣平を特高が待ち構える尾根の方へと追いやることになってしまったらしい…」
「あっ!」
源はとっさに首里で尋問した越智を思い出し、声を詰まらせた。あのとき、越智は「第一オレたちの目的は…」と言いかけたが、その後に「…吉澤惣平を特高から守ることだった」と結びたかったに違いない。そして、自分たちが惣平を追い詰めてしまったこと。つまり、「結果的に憲兵隊が『セコ』役を演じ、青い瞳をした特高の狙撃手が『マッパ』役だった」と…。
「ああ…」
源は深い溜め息のように弱々しい声を発し、うなだれた。なおも山元はファイルを眺めながら、話を続けた。
「その後、小さな温泉町の駐在所で、内務省対陸軍省の小突き合いが繰り広げられた。しかし警視庁に逆らえない現地警察のとりなしで、山の案内役として特高に雇われていた地元の猟師がいつの間にか犯人にでっち上げられ、一件落着となった。
オレは、もしこの猟師が存命なら有力な証言が得られるはずだと考えた。しかし、すでに消されている可能性の方がはるかに高いと即断し、まずは当時利根川で猟師の遺体が上がった事例がなかったか、川沿いの警察をくまなく調べた。すると案の定、残念ながら昭和八年五月八日の朝七時二◯分、渋川の板東地区で発見されていた。わざわざ群馬まで出向いた甲斐があって、人のよさそうな老刑事から確かな証言を得ることができた」
無言で聞いていた田所は山元の行動力に感服しつつ、ささやかな疑問を投げかけた。
「特高にしては随分と杜撰な仕事だったんですね。すでに口なしとはいえ、抹殺した証人の遺体を所轄警察に見つけられてしまうとは…」
山元は瞬時に背もたれから体を起こした。
「計算違いさ。あの時期の利根川は、雪代が入るので増水して濁流と化す。水も著しく濁るから、発見される可能性は無いと踏んだのだろう。ところが偶然あの雨の朝、渋川南署の刑事が若い娘を道案内することになった。直接会って話したその老刑事によると、それは美しい女性だったそうだ。
板東橋に差しかかったとき、よほど目が良かったのか、雨に煙る高い橋の上から濁流に見え隠れしていた黒っぽい遺体を、娘が見つけたというんだ。濁った激流の水面は、流木やゴミなどが充満していたというのにだ。
老刑事は、『あれはまさに奇跡だった』と、驚いたようすを回想してくれた。そのときの娘には、惣平の執念が乗り移っていたのかも知れんなぁ…」
二人は無言のまま、頭を垂れて聞き入っていた。
源は山元が発した「濁流に見え隠れしていた遺体」というくだりに、ビルマの谷に散った「あずさ」を思い出し、感慨深げに目を閉じた。しかも彼女が病室に現れる時間が毎日決まって七時一五分だったから、その時間もほぼぴったり一致している。
山元も、あのとき蟬の鳴き声と共にどこからか聞こえていた暑苦しい高校野球のラジオ中継と、駅舎を出て炎天下の街によろよろと歩き去った、陽炎に煙る老刑事の細い背中を思い出していた。
源の鼻水をすする音で我に返った山元は、念入りに整えられたご自慢のカイゼル髭を一撫でして話を続けた。
「落胆した熊倉少佐は、父に無念の報告を上げることとなった。しかしその報告書には、少佐がのちに独自調査した追加の参考資料が添付されていた。
その詳細な内容は、新潟出身だった熊倉少佐が偶然帰省時に耳にした噂を糸口に調査した結果、惣平を『赤い雪』に誘い入れた人物が判明したというものだった。
その男の名は──、関川誠」
「! …せ、関川?!」
源は意外な名に驚き、涙にぬれる顔を瞬時に上げた。
●熊倉ノート
「関川誠は『赤い雪』の幹部の一人だった。すでに退役していたものの名狙撃手として若い陸軍軍人に影響力のあった吉澤惣平に目を付け、大正七年、長岡の陸軍演習に参加した惣平に近づいた。しかし説得がうまく行かず、その三ヶ月後には惣平が当時住んでいた横濱にまで出向き、ついに口説き落とした…」
源は再び驚き、血走った双眼を見開いた。
沖縄へ向かう船で偶然に知り合った老兵。人のよさそうなあの関川の親父が、自分の父を共産主義者に仕立て、そして結果的に死に追いやった。
源は怒ることも忘れ、ただ呆然と宙空に視線を漂わせた。
「オレの調査報告書とは別に、熊倉少佐が個人的に残したメモ帳を、つい最近入手することができたのでその主要部分を解説しよう。『赤い雪』と惣平の関係をめぐる真相、惣平と衣久の秘密がつぶさに記されている…」
そう述べると、山元は膝の上の重たそうなファイルを横に置き、古びたの分厚いノートを手に取った。ちらっと二人に視線を配り見開いたノートの紙面に没頭した。
「少佐は、関川誠の忠実な部下だった鴨志田一夫という男を突き止め、取り調べた。そして詳細な調書を残している」
山元は短くなった煙草を揉み消し、分厚いノートの黄ばんだページをめくった。
「これによると…、関川が長岡練兵場で惣平に接触したときに、初めて『赤い雪』の存在を明かし勧誘したが、にべもなく拒否された。するとその三ヶ月後、惣平の住居を突き止め鴨志田とともに横濱までやって来た。今度は失敗しないよう事前に綿密な身辺調査を実施した。その過程で惣平が不倫相手に子どもを産ませたことを知る。さらに調査を進めると、その相手が当時有名だったあの菱刈賢清少将の実の娘である衣久と判明し、驚くと同時にこのスキャンダルを利用することを考えた。つまり『公にされたくなかったら、メンバーになれ』と惣平を脅迫したわけだ…」
頭を抱えてうつむいたまま聞いていた源は、絞り出すような小声で、判然としない疑問点を指摘した。
「なぜ『赤い雪』なる組織は、そこまで執拗に父を欲したのでしょう。軍の若手に多少の影響力があったからといっても、将校でもなくすでに退役していた一兵卒ですよ。ほかにも優秀な現役兵はたくさん居たでしょう。自分はどうしても納得できません」
山元は大きく首を縦に振り、すぐに反応した。
「オレもオマエと同じ疑問を持ち、不得要領のまま読み進んだ。すると、このあとに驚愕の事実が書かれていた。続けるぞ」