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ゆきの谷

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 そう言いながら山元は煙草を勧めた。それは米駆逐艦内で比嘉がポケットから出したものと同じ、米国製《ラッキーストライク》だった。源は小さく会釈して一本抜き取り、山元が差出す大きなライターの炎に煙草の先端を当てがった。田所は山元を制し、ジャケットのポケットから自身の日本製《ゴールデンバット》を取り出した。
「自分の姉、衣久が源の父である吉澤惣平と恋に落ち、不倫熱愛の末に惣平の子を出産した…」
 (そら来た!)と思い、源は白煙を吐きながら身体を硬直させた。しかし山元の表情は穏やかなまま、一つ咳払いをして笑みさえ浮かべ、続けた。
「この子が、源の姉であり田所の初恋の相手である梓織さんだな…」
 田所が照れくさそうに頭をかき、はにかんだ。しかし、それとは対照的に山元の顔から急に笑みが消えた。
「オレの父、菱刈賢清と姉の衣久、そして源の父惣平の名誉のために、二人が誤解していると思われる『真実』を語りたいと思う。いいかな…」
 源と田所はただならぬ山元の物言いに緊張感を高め、一瞬こわばった互いの顔を見やり、山元に向き直ると大きく一回うなづいた。
「衣久は年頃となり、結婚か進学かはたまた家事手伝いか、その進路に迷っていた。ちょうどその頃、父がここ横濱の磯子にできた兵器工場の監査役に任命され、単身赴任することとなった。そこで衣久は、持病があって遠出が困難だった母に代わり、父の世話を買って出た…、表向きは。
 実は東京や横濱、大阪、神戸といった大都会のハイカラな女学校に通うことを夢見ていたんだ。念願がかない、姉は軍が借り上げた父の宿舎に住み込み、横濱の女学校へ進んだ」
 ここで山元は、煙草の白煙を吐きながらコーヒーをすすった。それにならうように、二人も不慣れなコーヒーを流し込んだ。
「父のお気に入りの忠実な部下だった吉澤惣平は、休日などにたびたび宿舎を訪れていた。特に惣平の妻が出産のために里帰りした直後からは、ほとんど入り浸っていたらしい。もはやその目的は父ではなく衣久だったようだ。
 やがて衣久の妊娠を知らされた父は、烈火のごとく激怒した。最も身近で最も信頼していた二人に裏切られたのだから、まあ当然と言えば当然だ。父は衣久に中絶を勧めたが、…と言うより厳命したが、衣久は聞き入れずに女児を出産した。反対はしたものの、玉のような孫を胸に抱いた父は感激し変心した。この子と娘の衣久、そして惣平の三人が、いや惣平の家族も含めた皆が深い傷を負わずに、願わくば幸せになれる方策はないものかと熟慮したという。
 しかし──、そんな矢先に事件は起きた。
 病院から赤子が消え、それが原因で衣久が発狂したのだ。父がいくら衣久を問い詰めても、もはや衣久には応える能力がなかったのか、またはあえて応えなかったのか、赤子が消えた経緯はついにわからなかった。
 そして数日後、失意と絶望を抱えたまま病院の屋上から身を投げた…。菱刈衣久、享年二◯歳」
 そこで山元は一息つき、遠い目で源を見た。
「同時に惣平が工場を辞めて姿をくらましたことを知り、父は惣平の裏切りを悟り半狂乱になってキミの父を呪ったそうだ」
 源は山元から目を背け、うつむいた。(やっぱり、来るんじゃなかった…)一刻も早く、そこから逃げ出したい気分だった。
「父はなりふり構わず行動に出た。以前の部下だった憲兵を何人か呼び寄せ、惣平の身辺調査を開始させた。オレの幼馴染みでもあり、当時売り出し中の狙撃手だった越智耕吉も、指宿から呼び寄せた。むろん復讐のために、惣平の射殺も視野に入れた措置だ。…そんな中、調査の第一報が届いた。
 それによると、『加藤弥太郎』という将校が惣平の逃亡を助けた疑いがあることが判明したのだ。父は更なる加藤の口添えや隠匿工作を懸念し、すぐに陸軍省人事局に圧力をかけて加藤を満州の最前線へと移動させた。
 ところが──、完全に激昂し、正気を失っていた父の元に、当時病気を悪化させて寝込んでいた指宿の母から手紙が届いた。便箋にはこう書かれていたそうだ。
『…あなたが何度も話してくれた自慢の優秀な部下、吉澤さんのことを病の床で夢に見ました。実際にお会いしたこともないのに。
 あなたは吉澤さんの朴訥とした人柄を、よく讃えていましたね。残念ながら人間は、時に魔が差すことがあります。それが衣久だったか、吉澤さんだったか、はたまた両方だったのかは今となってはわかりません。ただこれだけは、はっきりとわかります。生まれた《ともえ》には罪がないということ。せめて彼女から、かけがえのない父親を奪うようなことだけは、断じてしないでください。その父親がどんな人であろうとも…』
 父は、余命いくばくもない妻の心からの願いに感動し、涙したそうだ。そして妻の言うとおり、赤子のことを第一に考えるべきだと、再び改心した」
 話を聞く源の双眼にはすでに涙が溢れていた。その涙を拭おうともせず、絞り出すように山元に尋ねた。
「やはり《ともえ》というのは、菱刈夫妻がつけた赤ん坊の名だったんですね」
 山元はしんみりとうなづいた。
「おそらくな。キミの父は『梓織』と名づけたが…。それからほどなく、母は息を引き取った。慌ただしく葬儀を済ませて横浜に戻った父は、妻の遺志を尊重し、惣平への恨みを封印した。そして一旦は捜索も放棄したのだ。しかし、元部下から上がって来た調査報告書の続報に目を通し、衝撃を受けた」
 山元は、まるで源と田所の心構えを確認するように、そこで一度口を閉じ、険しい表情で二人を交互に見据えた。

●惣平の正体

「………」
 重苦しい沈黙に堪えられず、源は身を乗り出した。それとほぼ同時に、山元の口から思いもよらぬ衝撃の言葉が飛び出した。
「吉澤惣平は『赤い雪』のメンバーとして、特高の追求を受けているというのだ」
「えっ!」
 源は愕然とした。田所も双眼を見開いて驚いた。そして室内の空気は、一瞬にして青白く凍りついた。
「一度は惣平の暗殺も考えた父が、今度は彼を救うために腐心した。
 さすがの父も、警視庁の特高までは影響力を行使できなかったから、最も頼れる現役憲兵だった熊倉という少佐に、一刻も早く惣平を探し出して保護するよう指示した。それまで父が動員した憲兵もすべて熊倉少佐の指揮下に統合した。むろん越智もだ」
 聞き役に甘んじていた田所が、コーヒーカップを置きながら素朴な疑問を口にした。
「なぜ菱刈さんはそんなに必死になったのですか、特高が源の父を逮捕してくれれば、逆に捜索する手間が省けるし、その後にゆっくりと早期釈放されるための算段を講じれば済んだことでは…」
 眉間にシワを寄せていた山元が、さらにそれを深めて力説した。
「さっきも話したが、特高と憲兵はスパイ捜査の主導権をめぐって先鋭化していた。これは、内務省対陸軍省の面子をかけた暗闘でもあったわけだ。だからどちらも、相手の失態を欲していた。
 このような状況下で『赤い雪』への対応を誤れば、特高は大きなマイナスとなる。その後のスパイ捜査はすべて憲兵隊に持って行かれることになり兼ねないからな。そこで特高はこの事件に全力を注いだ。特に軍内部のメンバーは、あとで憲兵に横槍を入れられぬよう秘密指令が出された。
 『全員を射殺せよ』という…。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋