ゆきの谷
「時期が重なりますね。つまり梓織さんは、ほとんどタライまわしのように、新治からオレがいた沼田の加藤家へと転送されたことになる。なぜでしょう?」
田所の疑問提起に、源も不思議がった。
(祖父は一度は承諾したものの、新治には置いておけない理由があったのか、または母が沼田行きを望んだのか、あるいは突発的な問題でも発生したのか…)。
源が推理に行き詰まり、首をかしげていると、銀爾が頭をかきながら言った。
「わからん。もしかすると、憲兵の追っ手が新治にも現れたのかも知れない。しかも母と祖父は何かの約束にこだわっていたようだ。オレは『約束だから仕方ない』という祖父の言葉を聞いた。それが誰と誰とのどんな約束だったかは、見当もつかんが…」
すかさず田所が返した。
「その、新治のお爺さんからは話は聞けないのですか?」
「もう八二だからなぁ、かろうじて生きてはおるが、昔の辛い話を蒸し返して問い詰めるのも気が引ける。オレたちの、仮説を根拠にした絵空ごとにつき合わせるのも気の毒だし…」
銀爾の説明に源がつけ加えた。
「それに、ずいぶんとぼけてしまっているので、とてもじゃないですがまともな話を聞けるとは思えないんです。…おそらく、今のようなややこしい話しをしたところで理解してもらえんでしょう。でもいよいよとなったら、意を決して聞くしかないのですが…」
源は復員のあいさつのために対面したときの、切ないぐらいに老いた菊之助の印象を思い出し、腕を組んで渋面を横に振った。
田所の就職を祝うはずの宴は思わぬ展開となり、場は静まり返った。時折きしむ天井のギシッという小音だけが、だだっ広い部屋に響いていた。
漬け物を口に運びながら、源が明るい声で言った。
「以上! 姉さんが沼田へ行き着くまでの経緯は、ざっとこんなもんです」
「なんとも哀しい半生だったんだなぁ」
田所は大きな溜め息を吐き出し、改めて初恋の相手に想いを巡らせた。
源は田所の寝床を整えるために立ち上がり、銀爾と視線を交錯させて宴の終了を確認し合った。しかし田所は、囲炉裏の中で弱々しく燻る灰の一点を見つめたまま動かず、縁の欠けた湯飲み茶碗を左手に持ったまま、煙草の白煙をゆっくりと吐き出した。
湯飲みの中はすでに空っぽだった…。
●「ゆきの谷」
翌日は晴天だった。源は早朝から雪かきに追われた。九時過ぎになって頭をふらつかせながらようやく起きてきた田所も、銀爾からそれと聞くと外へ飛び出し源に加勢した。
「やぁ、おはよう。雪国の恒例行事だな。東北や北陸、関東北部出身の兵隊は総じて強かったという。その理由は小さい頃からコレで鍛えられていたからだと、オレは思っている」
田所は二日酔いの重たい頭をいたわりながらも張り切り、一宿一飯の恩義を尽くすかのように山道の雪かき作業に精を出した。
朝食が済むと、三人は駅までの道を歩き出した。田所を見送るために、銀爾も同行することになったのだ。
「お兄さんは難儀でしょう、もうここらで結構ですよ」
「心配ご無用、たまには歩かんとな。田所さんの雪かきの成果で、道も随分歩きやすくなっているし」
「…この度は、お世話になりました。梓織さんや加藤家のこと、そして吉澤家のことなどいろいろと聞かせていただき、本当にありがとうございました。オレも引き続き越智の消息を探るなど、事件の全容解明に微力ながら協力させていただきたいと思います」
「ありがとう」
里を一望する坂道から見た水上の町並みは、温泉の白い湯気で霞んでいた。それを取り囲む白銀の山々は、澄んだ朝陽をまぶしいほど照らし返していた。
三人は松葉杖に支えられて歩く銀爾のペースで、のんびりと歩いた。その杖の動きを斜後ろで見つめていた田所が、何気なく軽い口調で尋ねた。
「ところで、兄さんはどうして脚を怪我されたのですか」
銀爾はしばらく口を開こうとせず、ゆっくりと歩を進めながら左手の谷底を見つめていた。そして突然立ち止まり、谷の一点を松葉杖で差し示した。
「オレが八歳のときだった。その日も今日と同じように、大雪のあとの晴天だった。オレと梓織は母に連れられて、今来た道を同じように下っていた。そしてここまで来たとき、突然母はオレたち二人を抱き上げ、ここから谷へ飛び降りたんだ」
「えっ!」
聞いていた二人は、同時に驚嘆の声を上げた。谷に落ちて負った怪我だったことは源も知っていたが、てっきり銀爾の不注意による単独事故だと思っていたからだ。実は姉の梓織も巻き込んだ母の無理心中が原因だったと、このとき初めて聞かされて衝撃を受けた。
「母は肩と腰を強打したが奇跡的に大事には至らず、梓織は枯れ木の枝が緩衝材となりほとんど無傷だった。オレだけが、左大腿部から膝にかけて粉砕骨折の重傷を負ってしまった。まあ、ご覧のとおりこの高さだ、三人とも死なずに済んだことだけでも奇跡だったがな…」
源と田所は黙ったまま、しばらく谷底を見つめていた。二人は、母が心中をはかった理由は聞かなかった。昨夜の話の経緯から…、父が不倫の末に愛人に産ませた子どもを、拉致して来たあげくに有無を言わずに押しつけられ、おまけに不倫相手の家族から追われることとなった母の苦悩は、察して余りあったからである。
父惣平も口数が多い方ではなかったが、母ユキ乃は父以上に、寡黙で忍耐強い人だった。心優しい反面、これと決めたら断固貫徹する強い意思も持ち合わせていた。ここに立った母は、父を困らせるためにそうしたのではなく、おそらく心の底から人生に絶望したのだろうと源は考えた。
「雪だよ」
「…えっ?」
「谷に積もったこの大雪のおかげで、母もオレも梓織も命拾いしたんだ。父はそれ以降、母への申し訳なさと慚愧の思いで、ここを『ゆきの谷』と呼び、通る度に手を合わせるようになった…」
「はっ…」
源は記憶の片隅に、谷に向かって背中を丸める父の後ろ姿がかすかに見えた気がした。
「父上は、三人を助けた山の神様に、感謝の祈りをささげていたのでしょうかね」
谷底を見つめたまましんみりと言った田所の声が、谷の斜面に寂し気にこだました。
陽光をまぶしく反射するこの日の「ゆきの谷」は、源にはすこぶる穏やかに見えた。大きな岩の鋭い凹凸も、赤黒いであろう斜面の地肌も、白一色のハレーションが覆い隠していたからだ。
ほどなく源が、銀爾をにらんだ。
「こんなペースでは列車に間に合わなくなってしまうから、兄さんはもうこの辺でいいよ。あとはオレが送って行く」
源の大きな声が、場によどんだ沈鬱な空気を一掃した。
「ああ、そうだな。それじゃあ戻るとしよう。田所さんお元気で」
銀爾と田所は両手で固い握手を交わし、再会を誓って別れた。源は田所を促し、二人は急ぎ足で山道を下って行った。
銀爾は目を細めてそのようすを見送り、いつまでも手を振っていた。左脚の自由を奪った、深い深い谷の傍らで…。
●一通の手紙
──月日は流れ、幾度かの四季が奥利根の山河を駆けめぐって行った。