ゆきの谷
「実は本当のところ、オレたちにもわからないことだらけなんです。だから推測や憶測ばかりですが…」
そう前置きし、源は煙草を揉み消して田所の方に身体を向けた。
「姉の梓織は、オレたちの父、吉澤惣平が不倫相手に産ませた子なんです」
田所は、源の口から出た意外な言葉に息をのんだ。
「…当時一家は、横浜に住んでいました。母が兄さんを出産するために、ここからほど近い新治村の実家に里帰りしている、留守中のことだったようです。
当時、父はすでに除隊し、横浜の磯子という町にあった兵器工場に勤務していました。その工場の監査役をしていたのが、憲兵隊長や陸軍武官、参謀本部勤務の経歴を持つエリート、菱刈賢清少将。父の不倫相手は、あろうことかその菱刈さんの実の娘、衣久さんだった」
「兵器工場の監査役に、陸軍少将?」
驚嘆の表情で源を見つめる田所に、源はさらりと応えた。
「東京の小石川兵器工廠の下請けか分工場だったらしいのですが、民間工場に配属される監査役は通常なら少佐か中佐。今にして思えば、よほど重要な工場だったのでしょう。退役間近とはいえ、菱刈のようなエリート将官を配置するぐらいですからね」
源がそこで一息つくと、酒で顔を真っ赤にした銀爾が、二尾目の魚を手に取り、口をはさんだ。
「化学兵器や毒ガス、あるいは核兵器か何かを開発していたのかも知れないな」
丸く見開いた大きな目を白黒させて、田所は兄弟の顔を代わる代わる凝視した。
「まぁ、それはともかく…、衣久さんは横浜の病院で女児を出産する。それを知った菱刈家は大騒動となったはずです。何しろエリート将官の娘で高級な女学校へ通っていた『お嬢様』が、妻子持ちの職工の子を産んだのですから。
父も狼狽し、一時は衣久さんと駆け落ちの『約束』か何かをした可能性があるのですが、魔が差したのか理由は定かではありませんが、結果的にそれを反古にし、生まれたばかりの赤ん坊、つまり梓織だけを連れ出し逃亡したのです。
その後、衣久さんは自殺し、菱刈家は血眼になって父を追った。陸海軍の連絡会議でも話題にしていたらしいので、菱刈さんはおそらくなりふり構わず必死だったのだと思います。ですから、憲兵時代の息のかかった旧部下を動員するぐらいのことは、当然にやってのけたでしょう。
父は追い詰められ、数少ない心許せる上司だった加藤弥太郎氏に相談した。田所さんが奉公した、沼田の加藤家の主人です」
田所の瞳が輝いた。
「オレがぶっ殺した加藤均少尉の父親か」
さりげなくうなづき、源は続けた。
「弥太郎氏は、熟慮の末に父に逃亡を勧める。そしてこの家を世話してくれ、好条件で田畑も貸してくれた。父は一家を連れて秘かにここへ移り住んだのです。しかし菱刈さんの執念は、ついに加藤弥太郎氏が父を匿ったことを察知し、執拗に問い詰めた。結果、父の隠れ家が判明し、弥太郎氏は懲罰人事の犠牲になり大陸へ異動させられた。おそらく田所さんが加藤家で経験したように、水上のこの家の周辺にも越智のような憲兵がうろつきはじめたことでしょう」
ここで源は酒を呑み、漬け物を摘んだ。その挙動を見ながら思案していた田所が尋ねた。
「加藤弥太郎氏は、大陸に渡ったあとどうなったんだ?」
「すぐに亡くなったらしい。それも戦死ではなく、不可解な事故で…」
今度は源に代わって銀爾が述べ、続けた。
「田所さんが先ほど語ったように、弥太郎氏の母親が発狂し自殺したのは、これを知った直後だと思われます。オレたちの父親も、昭和七年四月一五日、『山菜を取りに行く』と言って山に入ったまま戻らず、今日二人が魚捕りをした谷の奥の獣道で、射殺体で発見されました。享年三九歳でした…」
梓織に関係するいくつもの死を知らされ、田所は全身を麻痺させたかのように動きを止め、ひたすら瞠目した。銀爾は、そんな田所のようすに気遣いながら酒を勧め、さらに話を続けた。
「父の死の状況も、実は謎だらけでした。新聞に載ることもなく、警察が伝えてきた遺族への説明は『熊狩り猟師の銃が暴発した事故』というものでした。オレは当時一四歳だったが、不審だらけだったこの事件がいともあっけなく終息したことに疑問を持ち、調べることにした。
ご覧のとおり水上は山奥の小さな町だから、捜査本部にあたるものは役場近くの駐在所に置かれた。ショックと心労のためにすっかり衰弱してしまった母を妹の梓織にまかせ、オレは連日左脚を引きずりながら、駐在所まで出かけて行った。当初は警察や憲兵、役人、猟師など、多数の関係者が出入りしていたが、その中で一際目立っていたのが、丸坊主でやせ形、長身で日本人離れした顔だちの背広を着た男だった。右手の親指と人差し指を擦りあわせる癖の持ち主であるその人物が、のちに源から聞いた越智という元憲兵だった」
耳を傾け、黙々と酒を呑んでいた源が口を差しはさんだ。
「オレは、沖縄の駐屯地で田所さんと別れたのち首里へ移動になり、その最前線で越智と再会しました。そしてあの激戦の最中だったので、いつ死んでもおかしくないという状況が、オレを暴挙へとかき立てました。
砲弾の破片を受けて負傷し、担架に横たわっていた越智を人気のないところへ運び出し、小銃を突きつけて尋問したのです。しかし、すんでのところで邪魔が入り『水上へは誘拐犯の逮捕のために一度だけ行ったことがある。…自分は殺していない』というところまでの供述しか得ることができませんでした」
田所は険しい表情をつくり、低く小さな声を発した。
「越智を殺したのか?」
「いいえ、殺してはいません。しかし生還したかどうかはかなり微妙だと思います。何しろ、首里の攻防戦は筆舌に尽くし難いほど激しいものでしたから…」
タイミングをうかがっていた銀爾が、すぐに話を引き取った。
「結局、猟師は書類送検のみで釈放されました。送検だって実際にはなされたかどうかは怪しいものだが…」
今度は源がたたみかけた。
「しかも、父の体内に残っていた弾は、猟師がよく使う散弾ではなく、七・九二ミリ弾だったんですよ。当時も今も七・九二ミリという規格の小銃弾はモ式しかありません」
「モ、モ式弾! モ式といえば越智じゃないか、奴はモ式小銃を標準装備していた数少ない兵隊の一人だった。もし奴が犯人じゃないとすれば、当時の憲兵の中にほかにもモ式小銃を持っていた奴がいたというのか? ありえんなぁ」
田所はうつむいて長い軍歴を回想しているようだったが、小首をひねるばかりで、しばらく顔をあげる気配はなかった。銀爾は話を戻した。
「これは推測ですが…、父が死んだあと菱刈の遣いの憲兵らは、正面から直接母に梓織を返すよう求めたと思います。多分、拉致も辞さないほどの強引さで。困り果てた母は、父が頼りにしていた弥太郎氏に相談しようと沼田まで出かけて行ったが、弥太郎氏はすでに大陸へ送られたあとだったから当然、会うことはかなわなかった。今度は新治の祖父に相談した。母は、ここでは梓織をめぐるすべてを、実父の烏丸菊之助に打ち明けたと思われる。結果、父が死んだ翌年の五月、梓織は新治にあずけられることとなった。匿われたと言った方がいいだろう」
それを聞いた田所が頭を上げた。