ゆきの谷
銀爾は口を尖らせて、ひょうひょうとした口調で言った。
「梓織はオレの妹であり、源の姉なんだ」
田所は数奇な偶然に愕然とし、まるで打ちのめされたように大きな身体をくねらせて絶句した。源も田所の口から出た「越智」の名を聞き、言葉を失っていた。
(あっ…、まさか)源がショックを受けたのは、田所と姉、そして越智の三人がつながっていたことだけではなかった。
「兄さん、戦死された弥太郎さんの一人息子の名前は?」
「確か…、ヒトシだったな、加藤均だ」
源は(やっぱり)と思った。ビルマのジャングルで起きた田所による加藤少尉暗殺の一件は、隊長のリーダーシップに不満を持った部下による偶発的、もしくは感情的な私刑ではなく、周到に準備された計画殺人だったのだ。
自身の初恋の相手が、目の前に座る二人の姉妹だったことに衝撃を受けてうつむいていた田所は、加藤均の名を聞いて顔を上げた。
「吉澤、覚えているよな。加藤小隊長が戦死したときのこと…」
計画殺人とわかり、脳中で肥大化していた源の困惑は、本人の自白によって救われるような兆しを見せた。
「インパール盆地、ニントウコンの手前で臨時の斥候部隊が幾つか編成され偵察がはじまったとき…。オレは指名されなかったにも関わらず、本人に気づかれぬよう加藤小隊に紛れ込んだ。そして最後尾を歩き、チャンスをうかがった。敵の偵察隊とはち合わせして不意の遭遇戦となり小隊長が戦死したが、実はあれオレが撃ったんだ」
田所の衝撃的な告白に、場は凍りついた。
赤々と燃える暖炉の温もりとは裏腹に、息苦しいほどの冷たい空気がしばし三人を支配したが、田所は続けた。
「…遡ること三週間前、それまで別行動していた中隊がトルブンの隘路に集結しただろう。そのときはじめて、あの憎き加藤均が同じ大隊にいたことを知った。そしてオレは、ヤツを殺すことを己の魂と梓織さんの想い出に誓ったんだ…」
源に目撃されていたことを知らない田所は、鬼気迫る大声でそう語った。
「加藤弥太郎の長男を、田所さんが殺したと…」
はじめて事実を知った銀爾は、源と田所を交互に見ながらうろたえた。酒宴は意外な方向へ突き進んで行った。皮肉なことに、それは源が銀爾に「過ぎ去った戦争の話はやめよう」と諭した、まさにその話だった。
床に転がった田所の焼き魚はとっくに冷め、半分露出した白い骨から立ち上っていた湯気も、すでに消滅していた。
「話を戻して済みませんが、姉は、姉の梓織は虐待を受けたあとどうなったのですか…」
源の双眼は、アルコールと込み上げる姉への情で充血していた。
「オレは上家での生活に堪えられなくなり、出ることを決めた。陸軍に志願したんだ。立派な兵隊になって、こんな一族にではなく国家に奉仕したいと考えるようになった。それからは、つまり上家を出ることを決めたときから、オレは梓織さんを避けるように努めた。愛情を断ち切り、忘れようと決心したからだ。しかし彼女は、唯一の味方であったはずのオレからも見放されたと思ったんだろうな、オレの入営日の五日前に忽然と姿を消した…」
茅葺き屋根に積もる雪の重量が増したらしく、すすで真っ黒に染まっている高い天井がギシッと鳴った。再び雪が降り始めたようだった。
黙って聞いていた銀爾が、田所の最後の言葉に血相を変えた。
「梓織は死んだのか? オレは用があって新治の母の実家に行ったとき、沼田に行商に出ているという近所の祖父の知り合いから、『梓織ちゃんも気の毒になぁ、まだ若いのに…』という立ち話を偶然耳にした。やはり…死んだんだな」
銀爾の問い詰めに、田所は目をつぶってしばらく考え込んでいたが、頭を上げて銀爾を直視し大きく首を振った。
「おそらく死んではいないと思います。少なくとも消息不明になったその段階では…。そう考える根拠は三つ。まず、オレがまっ先に疑った加藤母子による殺害だが、これはないだろうと直感した。消えた梓織を探す二人のようすが真剣で、とても偽装とは思えなかったからです。
第二に、彼女は着替えなど、身のまわりの最低限の必需品を持ち出していました。これは生活を継続させる意思の表れだと思います。だから自殺もないだろうと考えました。
第三は、書き置きのたぐいを残さなかったということ。もし死出の旅立ちだったとしたら、恨みの一つや二つ、あるいは逆に世話になった旨とか、何らかの遺志を書き残して行くと思うんです…」
「加藤家で殺された形跡もなく、自殺の疑いもないとすけば、いったい梓織は…」
銀爾が湯飲みの酒を呑みほしてそうつぶやいたとき、田所が何かを思い出したように付け加えた。
「それからもう一つ…。まるで梓織さんを見張っているかのように、毎日上家の周囲に出没していた越智が、それ以降姿を消した…」
やはり越智は菱刈の手先だったのだと源は思った。そして結局、梓織は菱刈家に取り戻されたのだろうと…。銀爾は、源に向かって弱々しく言った。
「いよいよ梓織は、九州の指宿に連行されたわけか…」
同じ結論を導き出した銀爾の言葉にうなづきかけた源が、それを遮るように左手を上げた。
「指宿? …いや、待てよ…。指宿には行っていないはずだ。菱刈家にしろ義父宅の林願寺にしろ、もし姉が一時でも住んでいたとしたら、時期的に考えて山元さんが知らないはずがない。何しろ出征の前日に『後生だから』と、衣久さんの自殺の原因を聞きたくて、実家を訪れたと言っていたのだから。
もしそこに見ず知らずの若い女性が居たら、または居た痕跡が残っていたら、あれだけ鋭い山元さんが気づかないはずはないと思う。隠された兄姉の文通の束を捜しまわった経緯もあったわけだし、衣久さんの手がかりを求めて、実家ではかなり神経質になっていたようだから、もし姉が匿われていたとしても山元さんなら簡単に見つけられたはず…」
源の説明に田所がたたみかけた。
「いずれにしても梓織さんと一緒に消えた越智が、すべてを知っているような気がする。ヤツはいったい今どこに居るのだろう。沖縄から無事に復員できたのだろうか…」
源は、首里の陣地壕わきで負傷した越智を尋問したことを思い出して歯がみした。しかしすぐに、司令部に呼ばれて中断を余儀なくされたことをありがたく思い直した。
なぜなら、越智が姉と関わりがあったなどとは夢想だにしなかった当時、もし尋問が中断することなく、その後に越智が源の気迫に負けて父殺しの一端を臭わせようものなら、間違いなくあの場で射殺していたはずだからである。
●梓織の哀しい半生
「オレは上家へ来る前の梓織さんについては何も知らない。いろいろと複雑な事情が絡んでいるようだが、この際…、教えてはもらえないだろうか」
湯飲みちゃわんの酒を一気に呑みほし田所が遠慮がちにそう言と、源と銀爾はゆっくりと視線を交錯させて黙り込んだ。再び音を伴わない重苦しい空気が部屋を支配したが、その静寂を嫌うように銀爾が口を開いた。
「…オレたち家族にとって、他人に触れられたくない苦い話だが、田所さんは加藤家で梓織をかばってくれた恩人だからな、少なくとも知る権利はあるだろう」
一瞬、沈思したのち源は一つ大きくうなづき、煙草の白煙をゆっくりと吐き出した。