ゆきの谷
しかし以前、部隊の先輩から聞いた話を思い出し、それが少し気になった。「白い服は空襲時に狙われやすい」という不吉なものだった。源はその「不吉」を払拭するように、頭を左右に振りながら、しきりに話しかけるきっかけを模索した。だが、すでに回復が進み軽傷者に分類されていた源には、近づく手立てがなかった。
重傷者は彼女らの看護を受けられるが、源たち軽傷者は「何ごともすべて自分たちでやらなければならない」決まりになっていたからである。ときどき、彼女が入室してきたタイミングを見はからって、わざとうめいて見せたりしたが、両どなりのむさ苦しい「軽傷者仲間」が振り向くだけで、なかなか彼女は反応してくれなかった。
数日が経ち、源は同僚がつくってくれたいびつな松葉杖で、ようやく自由に歩きまわれるようになった。
手づくりの松葉杖をプレゼントしてくれた「軽傷者仲間」たちは、「若いもんはええのう、直るのが早くて」と目を細め、源の回復を祝福してくれた。
転属のための出発も近づいたある日の朝、源は「今日こそ、せめて名前だけでも聞こう」と意を決し、まぶしい朝陽に目を細めながら、決まって彼女がやって来る七時一五分を待ちわび、窓に向かって深呼吸をした。無造作に切り抜かれたような四角い窓の外はめずらしく晴れ渡り、久方ぶりのすがすがしい朝だった。
ゴザが敷いてあるだけの粗末な軽傷者用「奥座敷」から、出入口に近い重傷者用ベッドの方へ歩み出たそのとき─、突如、バリバリバリ…っと凄まじいエンジン音が響き、続いてド~ンと腹に響く激しい大音響と振動に見舞われた。
源は焼けるような爆風に吹き飛ばされ、重傷者用ベッドのすき間に転がるように倒れ込んだ。次の瞬間、ゴーッという地響きのような轟音とともに材木とワラの束が降ってきた。薄れゆく意識の中で、源は「空襲だ」と思った。
「…オイ、大丈夫か、しっかりしろ!」
九州訛のかん高い声で目覚めた源は、周囲を見渡して愕然とした。源が居た建物は全壊し、視界に広がるのは重苦しく広がる鉛色の大空だった。司令部の機材や補給物資が収納されていた倉庫群も全半焼し、あたりは黒色の煙が立ちこめていた。
「貴様はベッドの間に倒れていたから助かったのだ。この建物にいた者はほとんどが、吹き飛ばされたか屋根の下敷きになって死んだ」
九州訛の曹長は、早口に説明してくれた。本人も左の額から血を流していた。
「歩けるか?」
「はい、なんとか…」
キーンと鳴る耳鳴り以外、新たな外傷はないようだった。源はこの曹長に支えられて、何とか立ち上がった。
「空が晴れるとコレがあるから始末が悪い。敵はまだくるかも知れないぞ、急いであそこの防空壕へ避難しろ」
曹長が指差す方向は煙に遮断されて何も見えなかったが、近くに落ちていたベッドの支柱を杖代わりにして、源は夢中でその方向に歩いて行った。右手はガケになっており、下に増水し濁流と化した渓谷が見えた。そこには兵の死体や身体の一部、建物の残骸が浮き沈みしながら流されていた。
「敵弾にやられなかったのは幸運だったが、こんな所に落ちたら一巻の終わりだ」などと考えながら足早に歩いていると、源の目に思いもよらぬものが飛び込んだ。ガケ下の川の淵で、流れにまかせてグルグルまわっている物体、それは白い服を着た女性の遺体だった。
「姉ちゃん!」
まさに今日、名前だけでも聞こうと考えていた看護婦だった。源の双眼はあふれ出る涙でぼやけ、力なく倒れ込んだ身体は、まだ火薬の臭いが残る湿った土に同化していった。
ついに聞くことすらかなわなかった彼女の名前を、似ていた姉に代えて叫ぶよりなかったのである。
重傷者を献身的に看病していた彼女のけなげな姿が、源の脳裏をゆっくりと、走馬灯のようにまわり続けた。むろん、顔の表情など見える距離ではなかったが、せめて安らかであることを祈らずにいられなかった。そして同時に、この戦争への疑心と嫌悪の気持ちをより明確に高めていった。
うつ伏せになって谷をうかがっていた源は、再び近づく敵機のエンジン音に気づき、急いで起き上がり左脚を引きずりながら走った。地面をえぐる機銃掃射の音が縦横にばらまかれる気配に追われ、源は汗だくになって防空壕に飛び込んだ。間一髪だった。
四つん這いのまま、乱れた息を両肩で整えながら、薄暗い壕の奥を見まわした。外から飛び込んだばかりの源にはよく見えなかったが、徐々に暗がりに目が慣れてくるとその光景に愕然とした。
そこには、汚れ一つない軍服をまとった将校や軍医たちが整然と並び、源を擬視していたのである。病棟にいた負傷者や看護婦、軍属などは一人もいなかった。
源は無理やり押し殺していた荒い息を、もはや止めることができなくなった。身体中にうっ積していた「無念」の気持ちが、音を立てて決潰したのである。源は、人目もはばからずに号泣した。
「散っていく一生懸命の若い生命と、ぬくぬくと生き延びる老兵…」
現実へのやるせない気持ちと、死んでいった彼女への愛おしさが重なり、次から次へと込み上げてくる熱いものは、いとも軽々と源の理性を放棄させた。壕の奥に潜む者たちはしばし傍観者となり、泣きじゃくる若い兵隊のようすをうかがっていたが、しばらくすると、なおも丸まって小刻みに震える源の背中に「老兵」たちの冷ややかな小声が降り注いだ。
「かすり傷程度の負傷兵が、この程度の空襲で泣いとるぞ」
「おおかた初陣の進出途中で、はじめて見る敵機に腰を抜かしたのだろう」
「実にけしからんなぁ、一度前線に出て敵兵の死体の一つも拝んでくれば、肝も座るだろうになぁ…」
源は、これまで半信半疑だった日本陸軍の軍紀崩壊を、ここでようやく確信することができた。
「こんな不甲斐ない将校がのさばっている限り、この戦争は間違いなく負ける」…と。
●山元曹長との出会い
翌日、崩壊した野戦病院の撤収と転属のため、源は生き残りの傷病者や医務関係者より一足先に、第一五軍司令部のあったメイミョーへと移送されることになった。狙撃名人として自他ともに認める存在であった源は、「なるほど、自分は必要とされているのだな」などと勝手に解釈し、鼻を尖らせて転属命令を拝聴した。
カイゼル髭が特長的な輸送部隊の隊長によると、部隊自慢の「立派な輸送車輌」に乗せてもらえるということだった。さっそく案内された駐車場には、何やら大きな赤茶色をした鉄の塊のようなものが見えた。自分が乗せてもらう「立派な輸送車輌」がこれだと聞いて源は驚愕した。「本当に走るのか?」と、疑いたくなるほどのポンコツトラックだったからである。
途中で動かなくなって「降りて押してくれ」と言われても、(今度ばかりは無理だ)と思ったが、それでも源は内心喜んだ。あの激しい空襲のあとなので、てっきり歩かされるものだと思っていたからである。
荷台には源のほかにも二○人ほどの将兵が同乗したが、患部の脚を投げ出して座れるほどの余裕もあり、荷車とは比較にならぬほど快適だった。