ゆきの谷
「謹賀新年 貴官存命祈願、依 本状差出。我無事帰還、一月三十日午前、群馬県水上町、吉澤邸訪問予定。 ─差出人─ 元貴官乃良質上司 田所犀造」
源は、はがきの文面を読んで爆笑した。気になってのぞき込んだ銀爾も面白そうにからかった。
「中国語のわからぬ中国人からか?」
「兄さん、失礼なこと言うなよ。中国にこんなバカいるわけないだろう。ワッハハハ…」
相変わらずセンスの悪い田所をからかいつつ、苦楽をともにした友人に再会できる幸せを、源は素直に喜んだ。
銀爾のビジネス・パートナーは、消滅した陸軍に代わり、大学の研究室や民間企業に代わっていた。執務に多忙な銀爾にすり寄り、田所との仲を楽しそうに語った。むろん、ビルマのあの一件は除いて…。迷惑がっていた銀爾も、源が話す田所の人柄を面白がり、二人は子どものように笑い転げた。
約束の三◯日朝、雪はやんでいたが未明までの豪雪が新たに積もり、迎えに出た源は駅までの歩行に難儀した。それでも七時には駅舎に着き、上り列車が次々と運んで来る乗客に目を凝らした。むろん東京方面からやって来る下りとは違い、数は少なくむしろまばらだった。一◯時をまわった頃、なぜか下り列車が吐き出した集団の中に一際目立つ大男が見えた。
「おう、吉澤。やっぱり生きていたか、元気そうだなぁ」
「お久しぶりです、田所さん」
沖縄の佐敷で部隊移動を命ぜられて以来、およそ半年ぶりの再会だった。二人はお互いの無事を祝福し合い、例によって冗談を交えながら新雪を踏みしめて歩いた。
吉澤家に到着し座敷きに通された田所は、銀爾に土産の「五家宝」の包みを差出し丁重な挨拶をした。
「なんだ、源から聞いていたほど、とぼけた人ではないんだなぁ。少しがっかりしたよ」
「吉澤。オマエ、お兄さんに何言った?」
「ああいうハガキをよこす人は、これこれこういう人だと説明しただけですよ」
豪放で愛嬌のある田所とやや神経質で生真面目な銀爾だったが、相反する性格とは裏腹になぜかウマが合うようですぐに打ち解けた。
「そういえば、田所さんと兄さんは同い年ですよ」
源が言うと、両親の仏壇に焼香を済ませた田所は、合掌の手を解きながら微笑んだ。
「そうか、お兄さんは若いなぁ。どう見ても自分の方が老けている」
「それは源とともに、戦場でご苦労を続けて来たからでしょう。自分は脚がこんなですから、お国のための苦労は何一つしていません…」
田所の笑顔が少し弱まり、うつむいた。
「兄さん、そんな話はやめよう。もう戦争は終わったんだし、新しい時代がはじまったんだから…」
源の言葉を引き取り、田所はいたずらっぽく笑った。
「そうですよ。いつまでもメソメソしていると、お兄さんには五家宝あげませんよ」
座敷きに再び笑いが戻った。源はさっそく田所の土産を皿に移し、お茶とともにちゃぶ台に置いた。銀爾はしきりに田所の顔を見つめ小首をかしげていた。
「お兄さん、オレの顔に何か付いてます? それとも、あまりにイイ男なので見とれているんですか」
思わず吹き出した銀爾は笑顔を収めながら言った。
「いや、実は以前、あなたとどこかでお会いしたような気がして…」
そう言われた田所も銀爾の顔をまじまじと見つめたが、首をかしげるばかりで何も思い出せないようだった。
「あっ、そうだ。そういえば何で下り列車で来たんですか? 金沢からなら北陸本線経由のはずだから、上り列車で来ると思ってましたよ」
「そんなこと聞くまでもないだろう、お兄さんへの土産…、熊谷名物のコレを買うためだよ。ワッハハハ…。いや、すまん。実はオレ、今後は東京に住もうと思って、上野で八百屋を営んでいる親戚の家に行った帰りなんだ」
「へえ、そこで店を手伝うんですか?」
「ああ、住み込みで働かせてもらう。言わば今回は、そのための面接みたいなものかなぁ。二泊三日のな!」
五家宝をほうばりながら、銀爾が口を差し挟んだ。
「ずいぶんと長い面接でしたね。で、合格はいただけたのですか」
「おかげさんで『一旦帰って支度ができたらすぐにでも来てくれ』って…」
田所は嬉しそうに笑った。
「それはよかった。それじゃあ今夜は田所さんの就職祝いだ。なっ、源」
源も笑顔でうなづき、腕まくりして立ち上がると、裏手の食物収納庫へ向かった。秋に収穫された作物の小山をかき分ける源に、田所がつぶやいた。
「いいなぁ、百姓のできるオマエがうらやましいよ。オレもできることなら、金沢に残って百姓でもやってみたかった」
「田所さんのご実家は、市街地ではないんですか?」
「ああ、金沢と言うと聞こえはいいが、家があるのは松任に近い田園地帯だ。両親は米をつくっている」
源は野菜の選り分け作業に没頭しながら、ゆっくりと口を開いた。
「そうですか。ところで『百姓でもやってみたい』なんて気軽に言わんでください。自分なんて見よう見真似の半人前ですが本当の百姓は凄いんですよ。そもそも、一つの分野の職業を『一姓』と言い、軍人も八百屋も翻訳家も、それ一筋にやっている人はみな『一姓』なんです。その名のとおり『百姓』は、一○○の分野に精通していなければできないから凄いんです」
「一○○の分野?」
「そうです。作物の知識や肥料のことはもちろん、天候や土壌のこと、水質、灌漑、土木、害虫・益虫、害鳥、微生物…。ひいては効果的な案山子の作り方まで、つまり何でも知っていないと勤まらないんですよ。それに、むろん重労働だからある程度体力も必要です」
カボチャやじゃがいもを抱えて出て来た源を見つめ、田所は感心したようにうなった。
「なるほど…、万能選手じゃないと勤まらんわけか、そりゃ大変だ。軽率なことを言ってしまった。これから野菜を扱うことになる人間として、改めなければならんな」
その後、二人は近くの谷川に魚を捕りに出かけた。田所は「釣竿はあるか」と喜び、呆れる源を尻目に谷への小径を闊歩した。
「よもや、大好きな渓流釣りができるとは思わんかったなぁ。金沢あたりでは『鮎のチンチン釣り』という独自の釣法があるように、毛針釣りの盛んな土地柄なんだ。子どものころ、北陸の渓流でならした名人芸を見せてやる」
…と意気込み、寒さに震えて顎をカチカチと鳴らしながら雪の積もる水際に立ち、しきりに毛針を振った。だが、なかなか魚は姿を見せず、暖を取りながらそのようすを冷然とながめていた源は、すごすごと田所に歩み寄った。
「この時期は川の水温が低すぎて、魚も活性が落ちてるんです。岩魚も山女魚も虫(毛針)なんて追わないですよ。いくら名人でもこんな状況では無理です。こういうときは、これに限ります」
源はそう言うと、白い息を吐きながら頭大の石を持ち上げ、流れの緩い場所の浮き石(水面上に一部が出ている大石)に力一杯投げつけた。
石と石がぶつかる「ガシッ」という鈍い音が響き、衝撃で煙のように沸き上がった底の土砂とともに、二○センチほどの銀毛(越冬のために魚体が黒ずんだ状態)した山女魚が、小刻みに痙攣しながらプカ~っと浮いて来た。
「おう、凄いじゃないか」
「石の下に隠れていた山女魚が、脳震とうを起こすんですよ」