ゆきの谷
源は比嘉を想起した。彼は確かにパリ勤務の経験があり仏語にも精通していた。おそらく当地で情報交換をする友人らも、みなフランス人だったことだろう。しかし、銀爾の意図がさっぱりわからず、いら立った。
「なぜ?」
「仏語などのラテン系言語は、Hの子音を発音しない。だからハローはアローになるし、ヘレンはエレン、ヘルメスはエルメスとなる。つまりイシカリは、ヒシカリだった可能性が高い。オマエもよく知っていると思うが、父さんの『偉大なる上司』菱刈さんは、…元、陸軍武官だ」
「……」
──まさに晴天の霹靂だった、源は絶句した。
父から教えられ、模範として来た菱刈が山元の実の父親で、自身の父を殺した首謀者だったことになるのだから。
源の手から茶わんが抜け落ちた。白い磁器はちゃぶ台に砕け散り、こぼれた酒が四散した。銀爾はそれを拭きながら源の顔をのぞき込み、新しい湯飲み茶わんを差し出しながら告げた。
「今度はオレの推理だ。いいか?」
源はうなだれ、弱々しい溜め息のような返事を発した。
「ああ…」
銀爾は、源の口述の要点を記したメモ用紙を見つめながら瞬きを繰り返し語り出した。
「梓織が新治から消えた理由は、加藤弥太郎宅に預けられたからではないかと思っている。当時オレは半年に一回程度、月夜野町の診療所に通っていた。言うまでもなく左脚のリハビリのためだ。
ある日その診療所で、額を青アザで腫らした大男を見かけた。多分オレと同年代だ。待合いで向かいに座ったその男があまりにも痛々しかったので、どうしたのかと声をかけた。すると彼は『わけあって邸宅に住むようになった令嬢をかばい、奥様とご子息に殴られた』と言った。奉公している邸宅をそれとなく尋ねると、偶然にも加藤弥太郎宅だったんだ」
源は要領を得ずに、ぼんやりと銀爾をながめていた。
「その令嬢が、姉さんだったということか」
「これはオレの直感だ。加藤家は弥太郎氏と婦人の間に、子どもは長男一人しか居なかった。弥太郎氏は技術畑の軍人だったので軍歴のほとんどが内勤だったにも関わらず、ウチがここへ引っ越して来た直後に大陸の最前線へ送られ、その後不慮の事故で亡くなっている。
そのときオレは、見えざる誰かの政治的意図を感じた。当時は、その影の大物が誰かはまったくもってわからなかったが、もし、それがオマエの推理から見えて来た『菱刈』だったとしたら、十分あり得る話だ」
「あり得るって、何が?」
「これはあくまでも仮説を基にした仮説だが…、もしその大男の使用人が言う令嬢が本当に梓織だったら、弥太郎氏が父の逃亡を助けたと確信した菱刈が、陸軍省の人事部に圧力をかけて弥太郎氏を大陸に送り抹殺した。それぐらいの影響力は持ってたはずだからな菱刈は。
薄々それと気づいた加藤家の婦人と一人息子は、梓織が世帯主に非命をもたらした元凶と恨み、辛く当たるようになった。青アザの使用人は、その梓織をかばって殴られた。むろん母さんと新治の爺さんはそんなことは知らず、梓織は裕福な加藤家で幸せに暮らしていると思っていただろうがな」
「…で、姉さんはその後どうなったのさ」
呆然と聞いていた源が何気なく投げかけた一言に、銀爾は両手で頭を抱えた。
「わからん。少なくともその後、どれぐらいあとなのかもわからんが、噂では加藤家の長男は出征し大男の使用人も『令嬢』も姿を消して、婦人が一人で暮らしていると…」
部屋に沈鬱な空気がよどんだ。二人は考え込み、しばらく動こうとはしなかった。源は「対」になって並ぶ両親の遺影をながめながら、一つ言い忘れていたことを思い出した。
「…ああ、あと一つ。山元さんの義父が、菱刈夫婦の会話の中で『ともえ』という名を耳にしたそうだ」
「ともえ…? 梓織は『梓』が示すように、信州にちなんだ名だから父さんが命名したのだろう。まだ名もない赤ん坊のときに誘拐されたのだから、あちらではその名で呼んだんじゃないか。
ともえ…か。ああ、そういえば、関係ないが新治の烏丸の家紋は左二つ巴だったなあ」
源は、赤ら顔で宙空を見やる銀爾のおでこを、いたずらっぽくピシャリと叩いた。
「新治の家紋はさすがに関係ないだろう。あちらは指宿だし…」
外はすでに薄明るくなっていた。それと気づいた二人は、無言のままその場に横になり、どんよりとしたまどろみに身をまかせた。
●国家の敗北
翌朝、源は朝食の水トンを食べながら、沖縄の部隊から脱走し、海賊まがいのことをして、必死で逃げ帰って来た事実を銀爾に白状した。自身の身体的ハンデを必要以上に負い目と感じ、「自分の分まで国に奉公した源」に尽くす献身的な銀爾の態度が、息苦しく感じたからだった。
「真っ正直に上官の言うことを聞いていたら、命なんて幾つあっても足りない。だからオレは、卑怯と言われようが弱虫と言われようが構わない、絶対に生きて帰ってやると決めたんだ」
銀爾は事実を知るとはじめは動揺したが、源の自信に満ちた眼光をみつめ、理解したように深くうなづいた。
「勲章も幾つか頂くほど実績のあるオマエがそう決めたんなら、いいんじゃないか」
源はたまりかね、ちゃぶ台を叩いた。
「オレなんて、そんなに立派なもんじゃない。平気で国を裏切るような、その程度の兵隊なんだ。兄さんに気を遣ってもらうような英雄でも何でもないんだよ。すべてが軍事優先で、戦争のために何もかも捧げ、苦しい生活に甘んじてきた銃後の忍耐だってもっと賞賛されるべきだ。少なくとも前線から無断で逃亡したり、上官を脅迫するような兵隊よりはるかに立派だと思う…」
源は山元住職の「戦争に翻弄されるのは、何も前線の将兵ばかりではない…」という説法を思い起こしていた。
「しかし、オマエは最前線に出て国家の正義を貫いた。銃後では決してできんことだ」
充血した源の双眼が鈍く光った。
「…正義?」
ため息のような乾いた源の反復に、銀爾は意外そうな表情で見返した。
「兄さんらしくないこと言うね。その『正義』こそが残酷な殺し合いの元凶じゃないか。
古今東西を問わず、人類史上これまでに起きた何千、何万という戦争や紛争の中で、正義の戦いじゃなかったものが一つでもあるというのか? 敵も味方もみな正義のために戦っているから、命を投げ出せるんだろう? 『もしかすると相手が正義で、自分たちは逆賊かも知れん』なんて疑念が少しでもあったら、あんなに壮絶な殺し合いができるわけないじゃないか。
戦争を起こす政治家や、決戦に挑む軍の司令官らは、まるで兵に魔法をかけるように決まって『正義』を口にする。『自分たちは正しい、だから何も恐れるな』…と。むろん敵の司令官もだ。だから敵味方どちらの兵も、何も恐れずに最後の一人まで殺し合えるんだ。
そんな悪魔の言葉を、よもや兄さんが口にするとは…」
幾多の経験を基に力説する源の途方もない説得力に圧倒され、銀爾はしばく黙ったまま返すべき言葉を探した。
「…過ぎたこと言ったってしょうがないだろう。さっ、とっととメシ喰って明日からのことを考えようぜ」
源は冷や水を浴びせられた思いで、高ぶった感情を急速に降下させた。箸を手に取り、残りの水トンを一気に食べた。そして食後、二人は今後の生活について話し合った。