ゆきの谷
源は「ドキッ」としたが平静を装い、(相変わらず兄は鋭いな)などと感心しながら、ちゃぶ台の前に座り直した。
並べられた献立は、雑穀ご飯、ハクサイの漬け物、きんぴらごぼう、キノコの塩漬け、そして粒のような細かいネギがわずかに入った味噌汁だった。
「こんなものしか出せんで済まんな、めでたい席なのに。これでもご馳走なんだ」
「めでたいなんてやめてくれよ。オレは今朝、母さんの死を知ったばかりなんだから。…それに、戦場で喰っていたものと比べたらこれは立派なご馳走だよ」
銀爾はじっと源の顔を見つめた。
「…そうか」
二人は会話もなく、黙々と食べた。
元々兄の銀爾は口数が多い方ではなかったので、それを知る源も特に話しかけることはせず、気兼ねなく押し黙ったまま食事に専念することができた。食後は打って変わり、兄弟水入らずで、久方ぶりの団らんを過ごした。
「実はオレ、ビルマで負傷したんだ」
源はそう言うとズボンをずり降ろし、左大腿部の傷跡を見せた。そして、初めての赴任先となったチチハル、傷を負ったビルマ、…ペリリュー島から沖縄までの自身の戦争体験を語った。
「…随分と苦労したんだな。よりによってオマエもオレと同じ左脚とはな。オレは子どもの頃にコレがダメになったから国に尽くすことはできなかった。その分まで、オマエに苦労をかけた気がするよ」
銀爾は左膝をさすりながら、弱々しく言った。
「そんなことはないさ」
源は、このときはまだ糸満から九州を経て帰還するまでの後ろめたい経緯を話すことはできなかった。
「そういえば、オマエ覚えているかなぁ、加藤弥太郎のこと」
例によって、知的で落ち着き払った銀爾の口調である。
「もちろん、親父の秘密を知る謎の人物だろう」
「その謎が、あっさりと解けたんだよ」
源は驚き、目を輝かせて身を乗り出した。越智を尋問したとき以来、父の事件と姉の消息について兄が何か知っているであろうと考えていた源が、今まさにそのことを問いただそうとした絶妙なタイミングで、兄が口を開いたのである。
「母さんの葬儀のときに、新治の爺さんから聞いたんだ」
「新治の爺さんっていうのは、母さんの父親、烏丸菊之助だよな」
「ああ、そうだ。さすがに八◯歳を越えて少々ぼけたらしいが、まだ元気なようだった。オマエも落ち着いたら一応、無事帰還の挨拶ぐらいはしておけよ。
加藤弥太郎という人は沼田の大地主なんだそうだ。爺さんとは昔から交流があり、新治の母の実家だけでなく水上に越してからはウチも、その加藤さんから田畑を借りていた。父さんは、弥太郎さんとは軍隊で知り合った。父さんにとっては上官だったが、お人好しで面倒見のいい弥太郎さんは、真面目で義理堅い親父をたいそう可愛がったそうだ。
元々技術者上がりで、おもに小銃の研究開発をしていた弥太郎さんは、優れた狙撃兵だった親父に興味を抱いた。しかも、そのお気に入りの狙撃名人が、自分の父の代からつき合いがあった新治の烏丸家の娘を嫁にしたからな」
「烏丸家の娘が母さんか」
「そうだ。そして一兵卒だった父さんは、兵役満了とともに職業軍人への道を進まず、なぜか除隊してしまう。弥太郎さんが反対し慰留に努めたにもかかわらずだ。
母によると、政治への介入を積極的に推進する軍に嫌気が差したからだと、父はこぼしていたらしい。除隊後すぐに、横浜の兵器工場で働きだし母さんと結婚した」
「新居は横浜だったんだよな。兵器工場で働けるように面倒を見てくれたのも、弥太郎さんか?」
「おそらくそうだろう。父さんの狙撃の腕が有名になったのは、むしろ除隊後だったようだ。演習の打ち上げなどに、よくゲストとして呼ばれていたという。最後は、長岡での演習の最終日に行われた射撃大会で、『凄い神業を披露した』と、寡黙な父さんが珍しく自慢げに、何度も話してくれたものだ」
関川の親父が見たという大正七年の件だと、源は思った。
「その長岡で、親父の狙撃を見たという人に、移動の船の中で一緒になったよ」
「へえ、そうか…」
「そういえば、その人が妙なことを言ってたんだ。その三ヶ月後に横浜の病院で、偶然、親父を見かけたと」
「病院で? 時期的には新治でオレが生まれた頃だな。母さんは第一子のオレを産むために慣例にしたがって里帰りし、父さん一人が横浜に残ったとは聞いていたが…」
源は一つ咳払いをすると、改まって座り直し銀爾を見た。
「兄さん…、実は軍隊生活の三年間に、親父に関係のあるいろんな人と会い、話をすることができた。オレが出征する直前に、親父の死をめぐり兄さんと夜を徹して話したことがあったが、あのときとは違って随分と色々なことがわかったんだ。兄さんも、もしオレに隠していることがあったら教えてくれよ」
銀爾は神妙な表情で口を尖らせた。
「別にオマエに隠していることなんて…」
源は構わず続けた。
「今から話すことは、戦地で仕入れた色んな情報を基に組み立てたオレの推理だ。個々の情報の根拠はあとまわしにして、まあ取りあえず聞いてくれ…」
「わかった。オレもオマエが留守の間に耳にしたことがたくさんある。確かに、母さんに口止めされて伝えていないこともな。それはあとで話そう…」
銀爾はそう言うと、仏壇の横から素早くメモ用紙を取り出し、短い鉛筆の先をなめて源の発言を促した。
●父と衣久の秘密
源は瞑想するように双眼を閉じ、しばし記憶を整理するとゆっくりした口調で語り出した。
「親父は、兄さんを産むために里帰りする母さんを見送ったのち、居残った横浜で衣久という若い娘と親密な仲になる。どちらが積極的だったのかはわからんが、兄さんを抱えて母さんが横浜に戻った前後に、衣久さんは親父の子を身籠った」
うなづきながらメモ用紙を見つめていた銀爾は瞬時に顔を上げ、いきなり源の口から飛び出した衝撃的な一言に息を呑んだ。
「そして、衣久さんは女児を出産する。このとき、親父は衣久さんと何らかの『約束』をした。おそらく、妻子持ちの男との不倫に激怒した衣久さんの両親から逃れるための、駆け落ちの約束だったのではなかったかと、オレは推測している」
源は銀爾が用意しておいてくれた新しい煙草を開け、一本取り出して点火した。銀爾は無表情のまま源の挙動を見つめていた。
「ところが、親父は何らかの理由で変心し、子どもだけを連れて逃げ、衣久さんとの約束を反古にした。
そして、細かい経緯はわからんが母さんにも事情を告白し、夫婦の子として育てることにした」
指折り数えていた銀爾が、口を挟んだ。
「ちょっと待ってくれ、それが梓織だと言うのか? 梓織は一◯月生れのはずだぞ。オマエの話が事実なら…、一月末か二月上旬生にまれたことになる」
源はなだめるように、手を振りながら続けた。
「兄さんが生まれた五月二六日から数えて、計算が合わなくなるから、のちに改ざんしたんだろう、一◯月に…」
二人は自然に、仏壇で微笑む父の遺影に視線を移した。
「親父に裏切られ赤ん坊まで奪われた衣久さんは、失意から立ち直れず自殺する」
「じ、自殺…。梓織の実の母親は自殺したというのか」
銀爾は鉛筆を持つ手を止め、瞠目した。