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ゆきの谷

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 ループを描く松川トンネルを出ると、ほどなく魚野川支流の毛渡沢にかかる鉄橋を通過する。源は以前、母方の祖父である烏丸菊之助に連れられて、この沢に岩魚釣りに来たことがあった。いよいよ土樽駅を通過し、ここも岩魚の宝庫だった万太郎谷へと続く本流を渡った直後、貨物列車は清水トンネルに突入した。
「ゴー」
 まぶしいほど輝いていた越後の山野は、一瞬にして真っ暗闇へと吸い込まれた。当然のことながら煙はなく、車輪が線路を削る鉄粉の臭いが鼻を突いた。点々と飛び去る隧道灯を見つめ、五分が経ち一◯分が経過した。耳をつんざく激しい騒音が、やがて源の大脳に心地いいリズムを刻みはじめた。そして源は、頭上の風景を思い浮かべるように目を閉じた。
 家族で登った谷川岳の「マチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢」の光景が脳裏に描き出された。万年雪の上ではしゃぐ幼少の自分と、それを見守るやさしい姉、そして「危険だから」と諌める父の笑顔が、次々と浮かんでは消えた。しだいに目頭が熱くなってくるのを感じた。それが懐かしい想い出のせいだったのか、はたまた忌わしい騒音と鉄粉の所業だったのかは、わからなかったが…。
 鼓膜が圧迫されるような耳の痛さを感じた次の瞬間、閉じたまぶたの上からもそれとわかるまぶしい陽光と、懐かしい空気の臭いに反応し、源は思いっきり双眼を見開いた。
 分水嶺を越え、川の流れが逆になっていた。湯檜曾川である。
「土合だ! ついに水上に帰還した」
 土合駅を通過し、再びトンネルに入ったが今度はすぐに抜けた。もう一つ、ループ式トンネルをくぐり湯檜曾駅を通過したのち、利根川の鉄橋を渡るといよいよ列車は減速しはじめ、滑らかに停車した。
 昭和二◯(一九四五)年六月二四日午前七時、源は全身を硬直させ感激で呼吸を荒げながら、水上駅のホームに降り立った。
 停車駅が予想できぬ貨物列車だったため、(もし、水上を通過してしまったらどうしよう)と心配したことなど忘れ、充血した双眼をさらに潤ませた。夢にまで見た駅前の情景である。トンネルの越後側は晴れていたが、こちらは雨上がりの曇り空だった。路面も蒼い木々もしっとりと濡れ、キラキラと朝陽を反射して輝いていた。
 (見慣れていたはずのこの光景が、こんなに美しかったとは…)。
 プラットホームには、列車を待つ乗客も駅員も、売り子の姿も見あたらなかった。まったくもって寂しい凱旋である。貨物列車が去った構内をとぼとぼと歩く不審な男に気づき、若い当直の駅員が駅長室の窓から顔を出して声をかけたが、源はまったく気づかず、懐かしい駅舎をあとにした。
 自宅への歩を進める源には、目に入るこの町のすべてが新鮮で愛おしかった。すれ違う見ず知らずの行商の老婆にさえ「おはようございます」と声をかけ小首をかしげられた。
 「一・二、一・二…」と前進を続けるけなげな自身の両脚を見つめ、源はポケットの中をまさぐった。そして、焦げ跡の残る小さな縞柄模様の布辺を取り出した。
「知花、三つ目の王様命令、確かに果したぞ…」
 谷川橋に差しかかり眼下を見おろすと、利根川が泰然と横たわっていた。春は雪代で激流と化すこの大河も、この時期にはすっかり落ちつきを取り戻し、流れはいたって穏やかだった。
 顔を上げると、正面に吾妻耶山、裏手に高檜山、右手に谷川岳高倉山が悠然と源を見おろしていた。太鼓やラッパで盛大に迎えてくれる者は一人として居なかったが、出征前と変わらぬ奥利根の大自然が、静かなる、大いなる歓迎をしてくれたのだ。

●兄・銀爾の笑顔

 歩くこと三◯分、源は懐かしいわが家の前に立った。
 敷地の入口に門代わりに立つザクロの木にもたれかかり、しばらくしんみりと玄関をながめていた。しばらくすると、左手の縁側から人の気配がした。顔をのぞかせてから少し間を置き、確認のまばたきののちに声を発したのは兄の銀爾だった。
「源か…?」
「ああ…、ただいま」
 二人はそのまま満面の笑顔を交換した。
「そんな格好しているから誰かと思ったよ、源なら軍服で帰って来ると思っていたからな。まぁ入れ」
 銀爾は意外とクールだった。よもや兄弟が抱き合って号泣するようなことはないだろうと思っていたが、あまりにサバサバした兄の態度に、源は肩透かしをくらったような気がした。
 笑みを残しながら玄関へ入り、一つ一つの動作をかみ締めるように靴を脱いだ。しかし座敷きに上がった瞬間──、笑顔は吹き飛び、源は凍りついた。
 正座して迎えた銀爾の奥に、父だけでなく母の遺影が並んでいたのだ。源は体中の力を瞬時に投げ出し、その場に崩れた。
「ご苦労だったな、お帰り!」
 銀爾は改めてねぎらいの挨拶をすると、源の視線を追うようにゆっくりと振り返り仏壇を見た。
「…一年ほど前だ。急性肺炎だった」
 不思議と涙は出て来なかった。源は放心状態のまま、ゆっくりと畳を這うように前進した。そして仏壇に両手を伸ばし、母の遺影をしっかりつかんで胸元にたぐり寄せた。
 源が物心ついた当時の吉澤家は、本当に貧しかった。源が成長の過程で使用した、あるいは身につけた衣服などの生活必需品は、例外なくすべて兄か姉のお古だった。名前を書く欄があるものは、「銀爾」や「梓織」を塗りつぶした跡に、小さく「源」と書き加えられていたのだ。
 子どもだった源は、それが嫌でしかたなかった。そして、無遠慮にそれらを押しつけて来る母に、相当な不満を抱いていた。しかし実は、母は源の気持ちを全部理解していた。
 出征の前夜に、何日も夜なべをして作ってくれた「千人針」を源に差し出したときに、母はしんみりと言った。
「いつも、兄ちゃんや姉ちゃんのお古ばかりでごめんね。さぞやひもじい想いをしたろうね。でもこれは、これだけは源のために、母ちゃんが源のためだけにこしらえたものだから…。どうか、立派にお勤めを果して無事に帰って来ておくれ。
 母ちゃんは毎日祈っているから、無事に帰って来ておくれ…。毎日、毎日祈っているから、無事に帰って…」
 源にとっての母の最後の言葉が、千人針を差し出すときのあの哀しげな微笑みとともに、いつまでも脳中に響き渡った。
「あなたの息子は、たった今、帰って来ました…」
 右手に母を抱えたまま、左手で父の遺影をつかみ、目の前で二つを並べた。
「…二人とも、喜んでいるだろう」
 銀爾のその言葉を聞いた途端、源の双眼から堰を切ったように涙が溢れた。両親を抱きしめたまま、源はいつまでも号泣した。母としてだけでなく一人の女性として烏丸ユキ乃を想い、決して多幸とはいえなかったであろう焦げ茶色の彼女の人生を回想し、痛いほどの哀しさを噛み締めた。
 兄と弟の質素な家を取り囲む谷川沿いの山々は、まるで源を慰めるように、いつまでも小鳥のさえずりを奏でていた。

「おい、もう起きろ…」
 銀爾の素っ気ない一言で、源は目覚めた。どうやら仏壇の前でそのまま寝てしまったようだった。あたりはすっかり暗くなっていた。
「ここのところ、まともに寝ていなかったもので、つい…」
 言い訳をこぼしながら身体を起こすと、銀爾が夕食の支度をしながら尋ねた。
「オマエまさか脱走して来たんじゃないだろうな、戦争が終わったなんて話、聞いていねーし…」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋