ゆきの谷
女性は引きぎみに怪訝な眼差しを源に向け、無言のまま真っ白な人差し指を伸ばした。
「…ありがとう、では失礼します」
礼を言うと源はずぶ濡れのまま、そそくさと歩き出した。ほどなく到着した柏崎駅は、大都市からの疎開児童の集団が到着した直後のようで、予想に反して異様ににぎわっていた。
狭い駅舎にごった返す群集を見ながら、源は考えた。(汽車に乗り込んで走り出したところに、もし憲兵が検閲に来たら…、もはや逃げ場はない)ここまで来て捕らえられることは許されなかった。
なぜなら王様を失った「王様命令」は絶対である。知花自身が果たせなかった最期の約束を、反古にするわけにはいかなかったからだ。絶対に…。
源は汽車に乗らず、歩くことにした。比較的大きな町である長岡を避け、小千谷までの約三○キロを…。思ったより険しい東頸城丘陵に難儀し、額の汗を一ぬぐいしたとき、ここ越後を故郷に持つ関川を思い出した。
(関川…、あいつどうしてるかな。汗っかきで、ペリリュー島の「谷川岳」ではしきりに汗を拭いていたっけ。…本当に生きているのかな。あの親父さんのためにも生還してほしいが。親父さんは沖縄から本土へ無事戻れたのだろうか、負傷者らはあのあと船を乗り継いで本土へ戻れるはずだったが、沖縄防衛に駆り出された可能性はかなり高い…)。大地に山に空、越後の風景のどこを見ても、関川親子の笑顔が浮かんでは消えた。
源は一○時間をかけて小千谷に到着した。予想外の難行軍だった。しかし「小千谷」という駅の看板を見たとき、源は胸が締めつけられる感覚に見舞われた。馴れ親しんだ地名が、ようやく目の前に現れたからである。小千谷駅に降り立ったことなどなかったが、水上から新潟方面へ下る上越線の駅の一つとして、その名はよく知っていたのだ。(ついにここまで来たか、水上まではもう少しだ…)。
意外にも上越線は、鹿児島の指宿線とは違い、ちゃんと機能していた。やはり物資や疎開児童を運ぶための大動脈として、この鉄道は守られていたのだ。のちに長岡(八月一日)、高崎(八月五日)、熊谷(八月一四日)と、沿線都市が空襲を受け運行が途絶えるが、源が到着した六月二三日夕刻の段階では動いていた。
汽車を待つ間、駅構内待合のベンチに腰かけ、高橋と分けた食糧を摘んだ。元々塩っぱかった干物が、日本海の潮水に漬かりその塩分濃度を倍増させていた。側頭部の血管が切れそうな思いで飲み込んだ二摘みの干物のために、構内の水道蛇口から止めどなく水をがぶ飲みするはめになった。空腹は瞬時に満たされたが…、なんとなくみじめな気持ちになり、水っ腹を「チャポンチャポン」とゆすってみた。その寂し気な音色は、干物の塩分並みに「みじめさ」を倍増させた。
源が水っ腹と戯れている間に、真っ黒い煙りの帯が近づき、かん高い汽笛が鳴った。下り列車だ。ホームに停止すると、乗客がどっと降りて来た。食糧の調達のため都会から遠路出かけて来た老婦人や、兵器工場などに動員されていた女工、疎開児童などが大半だったが、退役軍人か一時帰還兵と思われる兵隊服姿の老若男子も意外と多かった。みな疲労困ぱいした表情で、言葉少なに駅舎をあとにした。憲兵が降りて来はしないかとやや緊張したが、それは徒労だった
再び静寂を取り戻した待合は源のほかにもう一人、風呂敷包みを持った陰湿そうな中年男が居るだけで閑散としていた。外はすっかり暗くなり、時計は七時を差していた。
することもなく、裸電球のまわりを飛び交う虫をながめていた源に、中年男が話しかけてきた。
「上り列車をお待ちのようだが、どちらまで?」
久しぶりに聞いた訛のない低音の標準語は、源に兄、銀爾の知性溢れるなつかしい物言いを思い出させた。
「水上です」
「そうですか、では今日中の到着は無理ですね」
「えっ!」
源は急いで振り返り、時刻表を見上げた。
「そっちじゃないですよ、この貼り紙に書いてあります。戦時ダイヤだから旅客列車は間引き運転なんです。軍事優先ですからね」
なるほど、貼り紙によると八時三◯分発の越後湯沢行きが最終になっていた。
「…列車には不慣れなようですな、戦時ダイヤは昨日や今日のことではないはずですから」
「えっ、ええ。実は脚に重傷を負って除隊され、戦地から実家に帰る途中なのです」
高橋がくれたヒントを基に、源はここでも話を創作した。
「そうですか、それはご苦労様です」
男は姿勢を正し、温もりのある言葉とは裏腹に無表情のまま深く頭を垂れた。源も恐縮して膝をまとめたが、敬礼をしそうになり慌ててペコリと頭を下げた。源の身なりを見て不審そうな表情をした男に気づき、指摘される前に自身から「軍服でない理由」を解説した。
「引き揚げ船の都合で、鹿児島に降ろされたものですから、療養を兼ねて指宿にある遠縁の親戚の家にしばらくお世話になっていたんです。そこで除隊の手続きをし、装備品の返納をしました」
男は納得した風情で、黙ったままうなづいた。
「そちらは、越後湯沢までですか」
「はい。湯沢の家に帰るところです」
源は、戦時ダイヤの貼り紙に見入る男と、すぐ横に置かれた風呂敷包みをながめながら、彼の素性と旅の経緯を詮索した。
「水上だと…、一番早い列車は朝七時の高崎行きですね。ここで夜を明かされるおつもりですか」
「あっ、はい、やむを得ません」
男は少し考え込み、躊躇しながら口を開いた。
「あのう…、差し出がましいようですが、脚の傷が悪くなってもいけません。最終列車で一緒に湯沢まで行かれたらいかがでしょう。湯沢の駅の近くに、『高半』という知り合いの宿屋があるので、そこに泊まられた方がいいと思うのですが…」
源は微笑み、とっくに回復している左大腿部を、さもいたわるようにゆっくりと撫でた。
「お気遣いありがとうございます。自分は将校ではなく元兵卒です。戦地では地面に孔を掘って寝ていた身分ですから、屋根のあるここで寝れることは、むしろありがたいぐらいなんです」
ぎこちない会話が途切れ、すでに読み尽くした室内の貼り紙に再び視線を移動させたが、しばらく経ち源は少々息苦しさを感じながら必死になって話題を探した。真向かいに座る中年男も同じようだったが、何かを吹っ切ったように静寂を破った。
「自分は、先ほど刑務所から出所して来たばかりなんです」
源は男の突然の告白に驚いた。しかし(なるほど、どこかで見たような気がした、「風呂敷包みを抱えた地味で冴えない男」の絵図はそれだったのか)と納得し、改めて男を凝視した。
「…ですから、実は、自分もつい先ほど戦時ダイヤを知ったばかりなんですよ」
そう言いながら源から貼り紙に視線を移した男は、明らかに刑務所暮らしの理由を述べるか否か迷っているようだった。しかし、さまよっていた男の視線が再び源に戻り、止まった。
「赤(共産主義者)と間違えられたんです。憲兵や特高に締め上げられ、まったくいわれのない罪で三年も入っていました」
「えっ、三年で出れたのですか?」
この時代、共産主義者の嫌疑がかけらて逮捕されたら、まともな裁判も受けられぬまま死刑か終身刑になると聞き及んでいた源は、比較的短期間で出れたことの方にむしろ驚いた。